表紙17

其の六十九 横光利一

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

川の底から、こんにちは。きょうも、きこーっと。

前回noteでは、「僕らの見解から言えば、自己表出と言われる沈黙に一番近いところが芸術の根幹をなす。ということには変わりないんですけど。残念なことに、指示表出という言うふうにコミュニケーションの代わりとするものが、芸術の価値に関係ないか? と言うと、そうでない。副次的に関係があるわけです。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

では、つづきっす。。。

そして、あの、日本で。つまり、どうもそこの、そこの問題について、そこの問題を考えるまで、考えるまで到達した作家っていうのは、ただひとり。(チャプター11 / 芸術の価値_11:42〜)

「そして、その問題を考えるにまで到達した作家というのは日本ではただひとり、」

えーと。僕の知ってる限りでは、日本の近代小説のなかで、ただひとり。横光利一っていう、これは昭和の僕らより二世代ぐらい前の小説家ですけど。

「それは横光利一という小説家です。」

この人ぐらいなもので。が、いちばんそこに、そういうことにいちばん気がついてそれに近い小説を書けた人、意識的に書けた人です。

「この横光利一が、そういう問題にいちばん気がついて作品を書いたひとです。」

つまり、この人はどういう。つまり、この人の言いかた、その当時の文学の世界の言いかたで言えば。えーと。日本の文学は、純文学っていうものと、それから大衆文学っていうものとに、いつでも分かれてしまう。

「横光利一がどう言ったのかと言えば。日本の文学は、純文学と大衆文学にいつでも分かれてしまう。」

だけど、ヨーロッパの良い文学、良い長編文学と言えるのは、いつでも純文学にして大衆文学っていう。そういう要素がある、要素がある。

「けれども、ヨーロッパの良い文学と言える作品は、いつでも純文学にして大衆文学であるという。そういう要素がある、と。」

なんとかしてヨーロッパ並みにするならば、しようと思うならば、

「それをなんとかして、日本の文学をヨーロッパ並みにしようとおもうならば、」

純文学であって、それを少しも低下させずに、その水準を低下させずに、なお、なお。要するに、あの。物語の起伏みたいな。つまり、指示表出ですけど。指示表出として、

「純文学でありながらその水準をすこしも低下させないで、なお、物語の起伏、つまり指示表出として、」

起伏の多いそういう小説っていうのは、日本で書けないものだろうか。ということに、初めて自分の、なんて言いますか。自力で、って言いますか。自分の実力として、当面した唯一の人です。

「そういう起伏の多い小説を、日本で書けないものだろうか?! ということに、自分の実力として当面したゆいいつの作家です。」

この講演でさ、何人か昔の作家さんのおなまえが登場してきて、ぼくは素人で知らないこといっぱいですが。そーいう歴史があったんだなー、と思いながら聞いております。つづきは次回noteで〜!!!

平成28年10月22日



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