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無題。(令和5年2月24日の独り言)

ある重大な出来事が起きたことによって、
その出来事の起きた日にちが、
記念日、及び、祈念日になることがある。

たとえば、
「8月15日」であったり、
「8月6日」であったり、
「8月9日」であったり、
「1月17日」であったり、
「3月11日」であったり、
「9月1日」であったり、
「9月11日」であったり、また、
「2月26日」や「5月15日」という日も、
そのような日とも言えるやもしらないし、
「3月10日」「6月23日」「8月7日」「6月20日」
などなどの日、そして、
「12月8日」という日には、
毎年、祈ろうと想うし、
これらのほかにも、たくさん、たくさん、
そのような日があるのでしょう。

昨年の「2月24日」から一年が経ち、
この一年のあいだでは、
「2月24日」の日から、
何日が経った、及び、何か月が経った、
ということばを報道でも聴きながら、
ぼくのなかでもね、
「2月24日」という日のこと、そして、
その後の日々のことを、
じぶんなりに、想っている。

その想っていることとは、たとえば、
じぶんのブログでも書いていると思うし、
ブログでは直接的には書いていなくとも
そのなにかはそこで表れているやもしらないし、
考えながらも、でも、
ブログでは書きがたいこと、はたまた、
ブログの中だけでなくて、じぶんの
ことばに成らないような想いごとも、
あるとも思われる。

そのような想いごと、つまり、
じぶんの考えごとの中でも、
ぼくが、ぼく自身のなかで、
いちばんこわいなあ、と感じていることはさ、
世界では、これまで
たくさんの戦争が起きていたにも関わらず、
そのようなあらゆる世界の戦争に関して、
ほとんど、、 いや、って言うよりもね、
なんにも、と言えるほどに、
ぼく自身が考えたことが無かったことなのですが。

このぼくが、
なにかを考えたとて、
戦争を終わらす、もしくは、
戦争を無くす、というのは、
できないだろう、とも思うけれども。
それでも、ぼくは、ぼくなりに、
考えたり、想ったり、願ったり、祈ったり、を、
してゆかないといけない。
つまり、
世界とは、なにか? というのを、
ぼくは、ぼくなりに、知りたいんだ。

救いも何も見つからないような、
そんな夜を温めるように歌うんだ。

令和5年2月24日


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