20200108空

1926年と1984年と2020年と。

そして、このごろは、
12月17日のブログの最後で書きました
村上春樹さんの『1Q84』を読み返しているの。

この『1Q84』を読み返すのはさ、
はっきり何度目かはわからないけれど複数回、
そのときはすべて図書館で借りて読んでいたのですが。
こんかいは、せっかくならばと文庫本を購入して、
年が明けた直後の就寝する前から読み始め、すこしずつ、
今は「BOOK1・後編」の「第23章」までやって来た。

まだまだ、先は長い。

書籍をね、また何年後かに読み返すと印象が変わってくる、
というのはよく言われることですが。
なんだか、こんかいもそういう感じがあるなあ。

たとえば、「第1章」の冒頭では、
主人公・青豆がタクシーのラジオで
ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲を聴くことで、
『1Q84』の物語がスタートするのですが。
ぼくは、この『シンフォニエッタ』という曲、
小説を読むまでさっぱり知らなくって。
当時、図書館でCD借りて聴いたのだった。

『シンフォニエッタ』の説明の箇所を、
小説より引用いたしますと、、

 ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニーを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポーツ大会のためのファンファーレとして作られたものだ。青豆は一九二六年のチェコ・スロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼン・ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた。フランツ・カフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくヒットラーがいずこからともなく出現し、そのこぢんまりした美しい国をあっという間にむさぼり食ってしまうのだが、そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。青豆は音楽を聴きながら、ボヘミアの平原を渡るのびやかな風を想像し、歴史のあり方について思いをめぐらせた。
(村上春樹さん著『1Q84』BOOK1(新潮文庫)前編、12頁より引用です。)

‥‥とのことなのですが。
この箇所を読み返しながら、またあらためて
『シンフォニエッタ』冒頭のファンファーレを聴くと、
そう言われてみれば、どことなく不穏なふんいきも感じる。

そして、なんだかこのふんいきがね、
ちょっとうまくは説明できないんですが、
12月28日のブログでぼくが聴きました
吉本隆明さんの講演『敗北の構造』の中で吉本さんがおっしゃる
「敗北」というものを思わせるような気がしたの。
どこかが、なにかが、つながっているかのような?????

また、うえで引用いたしましたつぎの箇所では、、

 一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。
(同著、同頁より。)

『シンフォニエッタ』が作曲された「1926年」は、
日本では大正天皇が崩御され、昭和となった年、
ということが書かれてあって。
このことは、これまで読んだときには、
それほど思わなかったんだけれども。
なんだか今回読み返してとても印象的に感じました。

この19年後には、日本は敗戦をむかえる。

物語の中で、主人公・青豆が
超渋滞している高速道路上のタクシーを降車して、
脇にある非常階段から降りてゆくことで行き着いた
「1Q84」と青豆が名づけた世界。というのは、
でも、現在ぼくらが住んでいる「2020年」だっても、
どこかの段階で、時代のレールが分岐されてしまって、
ほんとうは訪れるはずの無かった世界なのやもしれない。

ほんとうにはどういう世界・時代が訪れていたのか?
は、もちろん与り知らないが、
この現在の世界を、なんとか、生きようとしていきたい。

見かけにだまされないように。。。

令和2年1月8日


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