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希望のようにも映る。

昨日はさ、Mr.Childrenの
メジャーデビュー30周年記念ツアー
『半世紀へのエントランス』の配信ライブ、
アーカイブ最終日でしたので、
再度、観ました〜。

ライブ、やっぱり、
すばらしかったなあ。

配信ライブを再度観ながら、
今回のライブについて、
あらためて考えてみたことをね、
ネタバレありでブログ書いてみたい。

Mr.Childrenのライブでは、これまでにも、
セットリストの曲の流れによっては、
曲に関して、これまで聴いていた印象とは
またちがったように感じることが、
たびたび、あったりするんですが。
ぼくとしては、今回の
『半世紀へのエントランス』でも
そのようなことを思ったなあー。

たとえば、ライブ中盤にて、
『タガタメ』→『Documentary film』
の流れが、すごかった。

2020年リリースのオリジナルアルバム
『SOUNDTRACKS』で聴いていたときには、
『losstime』→『Documentary film』
というアルバムの流れによって、
『Documentary film』の冒頭での、、

今日は何も無かった
特別なことは何も
いつもと同じ道を通って
同じドアを開けて
【Documentary film/Mr.Children】

「今日は何も無かった」という歌詞が、
今日は、
うれしいことも、たのしいことも、
何も、無かった。
とのように聴いていたんだけれども。

今回のセットリストでは、
『タガタメ』という、つまり、
事件や災害や戦争を想起させる曲の後で、
『Documentary film』が歌われることによって、
たとえば、戦地にて、
今日は、
この場所にミサイルが被弾しなかった。
かのごとく、
つらいこと、かなしいこと、くるしいこと、が、
今日は、何も、無かった。
のようにも聴こえてきて、
なんだか、ハッとしたの。

つまりは、もしかしたら
「何も無かった」というのは、
さみしいことばかりじゃあなくって、
その物事によっては、
希望のようにも映る。
そう考えてみれば、
『Documentary film』という曲が、また、
いちだんと好きになったようにも感じるのよね。

そしてさらには、
ライブ後半にて、
『Worlds end』→『永遠』
という流れも素敵だったなあ。

『Worlds end』では、、

捨てるのに胸が痛んでとっておいたケーキを
結局腐らせて捨てる
分かってる 期限付きなんだろう 大抵は何でも
永遠が聞いて呆れる
【Worlds end/Mr.Children】

「永遠」が「聞いて呆れる」と歌われていて。
この『Worlds end』の次に、
『永遠』が演奏される、というのは、
なんだか、ある意味では、
どことなく皮肉のようにも思われるし。
「永遠」とは、どういうことなんだろうか?!
とも考えたくなってくる。

はたまた、
『永遠』の歌詞には、、

空に残された白い飛行機雲
ふと自分が重なる
凄いスピードで逝ってしまう君に
必死で追い縋る
【永遠/Mr.Children】

「飛行機雲」ということばが登場していて。
それは、やっぱり、
『Worlds end』での、、

ゆっくり旋回してきた大型の旅客機が
僕らの真上で得意気に
太陽に覆い被さった その分厚い雲を
難なく突き破って消える
【Worlds end/Mr.Children】

「旅客機」ということばと、
リンクしているようにも思われて。

つまりはさ、たとえば、
『Worlds end』の未来として、
『永遠』という曲があるのやもしれない。
みたいなことも思ったんだよね。

ぼくは、まだ、
『永遠』という曲は聴くのが浅くって、
解釈もできていないふしがあるけれども。
『半世紀へのエントランス』での
セットリストの流れも踏まえながら、
「永遠」について考えてみたいのよね。。。

僕らは きっと 試されてる
どれくらいの強さで明日を信じていけるのかを…
多分 そうだよ!!!!!

令和4年5月30日


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