現在をどう生きるか8

第65回 自分なりに当面している問題で

前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(開催日時:1995年9月3日)をゆっくりじっくり聴きます。講演音源は吉本隆明の183講演より。ほんじつは、第65回めなのー???]

こんにちわ。ぜんかいには、、

「しかし本来的に言えば僕はそうじゃないと思います。

 つまり、現在の市民社会に通用してる善と悪の基準っていうのは、教育から子供問題から何から全部含めて浮遊してて疑えば疑わしいとこたくさんある、っていう状態になってるのが、現在だと思います。

 そうすると何はともあれ、どこ行ったら良いんだ、どういう基準を設けたら良いんだ、ということになるわけですけど。

 少なくとも僕は考えるには、現在の市民社会に通用している善悪の基準は、もっと考えて、もう少し普遍的な、って言いますか、もう少し広い善悪の基準の方向に考えていかないと、現在を超えて、次の21世紀でも良いですけどそこへ行くことは僕は出来ない。っていうふうに考えます。」

のシーンを聴きました。つづきをぉーー。。。

ですからやっぱり、その基準は、あの。現在の市民社会に通用してる善悪の基準よりも、やっぱり、少し広い、って言いますか。普遍的な基準へ、基準を求めて。
(チャプター08「麻原彰晃と造悪論」/5:49〜)

「ですからその基準は、現在の市民社会での善悪の基準よりもすこしひろいと言いますか、普遍的な基準をもとめて、」

‥‥ひろくて普遍的な基準をもとめて。。

それで、誰でもがそういう基準に向かって、あの。自分なりの場所で、自分なり当面してる問題で、あの。考えていかなきゃ、駄目なんじゃ…。

「だれもがそういう基準に向かって、自分なりの場所で自分なりに当面している問題で考えていかないと、」

‥‥じぶんなりの場所で、じぶんなりに当面する問題で考えてゆかないと。。

ってゆうここのところ、とってもすきだなあー。

えーと、たとえば吉本さんがおっしゃっていた吉本さんご自身のことで申しあげますと、吉本さんはたとえば「オウム真理教」の一連の事件を考える場合には、「市民社会の一員としての自分の判断基準」と「ものを考えることをして商売にしている自分の判断基準」とが、どうしても分裂・矛盾してしまう。そこが、自分の考えどころだ。とのようにおっしゃっていたのですが。

おそらく、たとえばなにかどのような問題を考えるときにでも、だれしもがこういう「矛盾」のようなことに直面することはあって。

そういうじぶんなりに感じられた「問題」を、じぶんなりに、考えなさい。

ということを吉本さんおっしゃっているかとはぞんじますが。これを聴いて、なんだか、勇気が出てくる。。。

そして、、

あの、次の世紀にはとても行けないよ。っていうものが、現在の一番大きな問題じゃないか。

「つぎの世紀にはとても行けないよ、というのが『現在』のいちばんおおきな問題じゃないか。」

‥‥次の世紀には行けないよ。。

つまり、価値が浮遊し始めている、あの、現在の問題の一番のポイントじゃないか。っていうふうに、あの、僕自身は、あの、考えてます。

「つまり、価値が浮遊しはじめている『現在』の問題のいちばんのポイントじゃあないか? というふうに僕自身は考えています。」

‥‥いちばんのポイント。。

ですから、たぶん、そこのところの問題は、あの。一番大きな問題じゃないか、っていうふうに思うんです。これは、、

‥‥いちばんおおきな問題。。

と、こんかいはここのところまでを聴きましたっす。

これにて、この「チャプター08」が終わりましたので、次回noteより「チャプター09 阪神・淡路大震災復興への課題」を聴いてまいります。いよいよ講演最後のチャプターなので、これまでとおなじく慌てないで落ちついてゆっくりじっくり聴きます〜。

平成30年9月15日