第64回 現在を超えて
[前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(開催日時:1995年9月3日)をゆっくりじっくり聴きます。講演音源は吉本隆明の183講演より。ほんじつと、第64回めと、わたし。]
こーんにちはー。ぜんかいではでは、、、
「でも、少なくとも僕はテレビや新聞が言うように『オウム真理教って極悪非道の無差別殺戮者だ!』と言うところで満たされることは無いんです。
ですから、そうじゃないと。つまり、それはそれで良いんだけど、そうじゃないと。そうじゃないのに、ってのを理解しなかったらもう現在っていうのも間違えますし、このオウム真理教っていうものの与えている影響自体も間違えますよ。っていうのが僕の考え方の基本です。
でも自分は、自分の考え方の分裂・矛盾を強いられてるというところを自分は考えなきゃ。
やっぱり自分なりにこの現在を超えて行くっていうことは、自分には出来ないな。って、そこがまあ僕なんかの一番の考えどころになってる、っていうのが本当に実情はそうです。」
のところを聴いたよーん。つづきでーすー。。。
しかし、本来的に言えば、僕は、そうじゃないと思います。
(チャプター08「麻原彰晃と造悪論」/4:41〜)
「しかし本来的に言えばそうじゃないとおもいます。」
‥‥そうじゃない。。
つまり、あの、現在の市民社会に通用してる、あの、善と悪の基準っていうのは、あの。もう教育から、それから子供問題から、何から全部含めて良いんですけど。全部含めて。
「つまり、現在の市民社会に通用している『善と悪の基準』というのは、教育から子供問題から何からぜんぶふくめて、」
‥‥なにからぜんぶふくめて。。
全部やっぱり、一応は、あの。もう浮遊してて、疑わしいとこ疑えば疑わしいことたくさんある、っていう状態になってるのが、現在だと思います。
「ぜんぶ浮遊していて、うたがわしいことがたくさんあるという状態になっているのが『現在』だとおもいます。」
‥‥うたがわしいことたくさんある状態。。
そうすると、何はともあれ、どこ行ったら良いんだ。どう…、どういうそいじゃあ基準を設けたら良いか。っていうことになるわけですけど。
「そうすると『どこ行ったらよいんだ?』『どういう基準をもうけたらよいんだ?』ということになるわけですけど。」
少なくとも僕は考えるには、あの、現在の市民社会、あるいは現在まで、と言っても良いんですけど。市民社会に通用していて、あの、ちっとも人、100パーセント疑ってない、あの。市民の人が疑ってない、あの。これは善だ、これは悪だ、っていうような基準は、あの。
「僕が考えるには、現在の市民社会に通用していて市民の人が100パーセント疑っていない『これは善だ。これは悪だ。』というような基準は、」
‥‥現在の善悪の基準は、、
もっと考えて、もう少し普遍的な、って言いますか。
「もっと考えて、もうすこし普遍的な、」
‥‥普遍的な。。
もう少し広い、あるいはもう少し広い善悪の基準っていうところに、あの。よく考えて…、基準の方向に考えていかないと、
「もうすこし広い善悪の基準の方向に考えていかないと、」
‥‥広い方向に。。
やっぱり現在を、あの、超えて。あの。次の、まあ、21世紀でも良いですけども。そこへ行くことは、僕は出来ない、っていうふうに考えます。
「現在(この講演は1995年9月に行われました。)を超えて、つぎの21世紀でもよいですけど、そこへ行くことは僕はできない。と考えます。」
‥‥現在を超えてそこへ行くことはできない。。
と、吉本さんおっしゃっていて。それが、21世紀になって。さらに時間が経って、いまは、平成が終わろうとしているけれども。
吉本さんのおっしゃる「普遍的で広い善悪の基準の方向によく考える」というような「現在を超えて」ということになれているのかどうか????? ともおもいながら。
そいではではでは、このつづきは次回noteで聴きます〜。。。
平成30年9月14日