第55回 たくさんのたとえ話
【「ほぼ日」の「吉本隆明の183講演」より、『喩としての聖書−マルコ伝』という吉本隆明さん講演を聞く聞くシリーズ、だい55かいめっ。】
こんにちはー。それじゃー、前回noteのつづきを、、、
で、あの。えーと、時間なんですけどね、時間が来たんであれなんですけどね。もうひとつだけ言わせてください。そのね、あの、言わないとちょっとおかしいことになるんですけどね。あの、つまりね、(チャプター11 / マルコ伝にはなぜたとえ話を集めたところがあるのか_0:00〜)
そして、あともうひとつだけ。
マルコ伝のね。マルコ伝のね、えーと………… ちょっと待ってくださいねぇ。忘れちゃった。 あのね、第4章のねぇ、たとえ話だけ集めたところがあるんですよ。それで、
それは、マルコ伝・第4章で「たとえ話」だけを集めた箇所があり。
それに触れなきゃちょっと、せっかく言ってもね、ナンセンスじゃないか? ってことになるのでね。ちょっと、ちょっとそれ触れさせてください。あの、
そこのところでは、
マルコ伝の、その、第4章にね。たとえ話だけ集めて、たとえ話でなんか言ったところだけを集めたところが、いくつか集めたところがあります。それで、これ。たとえをもって語る、って言うことはなにか? って言うことについて、ちゃんとマルコ伝は言ってるとこがあるんですけどね。
「たとえを持って語るとは、なにか?」のことを言っている。それは、、
あの、信仰がストレートに。あの、信仰。おまえたちみたいに弟子たちに聞かれてね。おまえたちみたいに、信仰のある程度、その、奥義(おうぎ)に達したような人間にはね、ストレートに言っ、あのね。ストレートに語るんだ。
弟子であるあなたたちのように、信仰が奥義に達したような人には「ストレート」に語る。
で、ストレートに語るんだ。だけれども、あの、そうじゃない人に対してはね、比喩をもって語るんだ。って言うこと。
けれど、そうではない人に対しては「比喩」をもって語る。
喩をもって、たとえ話でもって語るんだ。ってような言いかたをしてるところがあるんです。で、これはねぇ、ちょっとこの理解。これはどう、どういう意味なんだ? って。
このことは、いったいどーいう意味なんだ?!
理解のしかた。ちょっと大変むつかしい複雑な、怪奇のような、複雑なような気がします。
ここの理解のしかたは、大変むつかしくって、複雑だ。。
ただ、あの。そういうことじゃ、そういうことについてならば、僕がこうお話ししたことの方がいいと思います、十分だと思います。ただ、なぜ、ここに集めたたとえ話ってのはたくさんあるか? って言うこと。それから、
なぜ、どーしてこの箇所(マルコ伝・第4章)に、集めた「たとえ話」がたくさんあるか?!
それから、
たとえ話が集めたところが殊更(ことさら)あるか。で、それは、どういう意味を。どのようなことになってるか? ってことを申し上げてみますとね、
「たとえ話」がたくさんあることには、どーいう意味があるか?!
と吉本さんおっしゃるこの講演つづきは、次回noteで聴きますですー。からだの中に熱がこもってー、あついー。
平成28年8月2日
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