表紙11

第54回 喩がわかっている。

【吉本隆明さんの『喩としての聖書−マルコ伝』という講演をまいかい少しずつ聞いてゆくシリーズ、だい五十四かいめ〜。】

こんにちはっ!!! では、さっそく、、

そしてその答えかたは、あっ、こいつはわかっているよ。って言うふうに、(チャプター10 / 謎々がわかることは信仰が篤いこと_9:36〜)

と吉本隆明さんおっしゃる「その答えかた」とはさ、前回noteまでのこの「チャプター10」のなかで聞きました‥‥

イエス まず、こどもに飽かしむべし。こどものパンを取りて、子犬に投げ与えるはよからず。(まず、こどもに満足させてやるべきじゃないか。それで、こどものパンを取りあげ、犬にやっちゃうのはよくないよ。)

母親 然り主よ、食卓の下の子犬もこどもの食べくずを食らうなり。(そうです、あなたよ。だけどね、食卓の下の子犬は、こどもの食べたパンから落ちたパンくずを食べるものじゃないですか?)


‥‥という対話のことで。これはさ、イエスから見たら「あっ、このひとはわかってるよ。」って、つまり、

こいつはわかってるんだ。つまり、わかっているってことは、言葉がわかっているんだ。と。

「わかっている」とは「ことばがわかっている」であり、

言葉がわかっている、って言うことは、比喩がわかっている。喩がわかっているんだ。

「ことばがわかっている」とは「喩がわかっている」であり、さらには、

喩がわかっている、って言うことは、しん、あの。信仰が、あの、全き信仰。つまり、いい信仰を持っているんだ。って言うふうに思ったのでね、

「喩がわかっている」とは「いい信仰を持っている」って言うふうにイエスがおもったので、

要するに、そんなのおまえ治ったと同然だよ。治ったよ。っていうふうに言ったんだ、って言うふうに思います。つまり、

イエスは「それならば、もう貴女の娘は治ったも同然だよ。治ったよ!」と言った。そして母親が行ってみれば、ほんとうに女のこは治っていた。

つまり、

あの、こういうことってのは、あの。いわば、こう、奇跡。先ほども言いましたけれども、あの、あの。奇跡って言うものをね、言葉から見た場合に。あるいは、一般的にもっと普遍的に言って、新約書って言うものを言葉から見た場合に、

そのよーな「奇跡」をことばから見たばあいに。そして、「新約聖書」をことばから見たばあいに、

言葉っていう言語から見た場合にね。言語って言う観点から、そして言語って言う思想から、あの、新約書ってのはどういうふうに読めるか? って言った場合に、非常に重要な問題だ、って言うふうに。重要な理解の仕方だ、って言うふうに僕には思えるわけです。

それらを、どーいうふうに「読む」ことができるのか?

‥‥と。なんだかねぇ、ぼくはこの吉本さんおっしゃる「喩」ていうものを、ちゃんとわかりながら話を聞いたり本を読んだりできているかどうか?! って、たぶんかなりあやしくって。あっ、こいつは「喩」をわかっているよ。ていう状態で居られるように成りたい、ってのは思ったんだけども。。。

このつづきはね、またまた次回noteっす。次回よりつぎの「チャプター11」へすすみますですっ。

きょうから、おーがすと!!!

平成28年8月1日



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