第51回 なぞなぞ
【吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』を毎回ちょっとずつ聞きすすめてゆく的なシリーズ、第五十一回目だよ。】
こんにちはっ!!
前回noteではさ、ある母親とイエスとの対話がよくわかんないことになっていて。それはつまり、吉本隆明さんおっしゃるには「『喩』でもって問答しているわけです。」とのことでー。
そんじゃあ、このつづきを聞くです。。。
そうすると、あの。喩でもって問答してね、それでわかんないわけです。すると、あの、(チャプター10 / 謎々がわかることは信仰が篤いこと_4:06〜)
「喩」でもって問答してて、だから、わかんない。
ところが、答えるほうも、また喩で答えてるわけです。
そして。だけれども、答えた母親の側も「喩」で答えている。え、えーと、つまり、、、
そうすると、この種の。あの、この種の言いかたってのは、みなさんのご存じのあれで言えば、謎々なんですよ。
こーいう言いかたってゆうのは、「なぞなぞ」だと言える。
謎々ってのは、そうでしょう。あの。謎々の問答って言うのは、こういう、謎々とかね、諺(ことわざ)って言うのがあるでしょう。諺って言うのがあるでしょう。それはねぇ、こういう、いつでもこういう言いかたなんです。
「なぞなぞ」であったり、また「ことわざ」てゆうのは、いつでもこのような言いかたで。つまり、この母親とイエスがしている対話のような言いかたで。。
で、あの、これはねぇ。えーと、古代においてはね、古代においてはね。あのね。あのね、あれなんですよ。その、古代においては。例えば、古代におけるね。その、これはまぁえーと、古代の共同体っていうものに、世界中で共通、ある意味では共通なんですけどね。共同体のね、共同体で、その、
古代においては、
信仰を、信仰を司(つかさど)る者、って言いますかね。信仰を司る者と、共同体を政治的にあるいは行政的にね、司る者って言うのは、しばしば同じである。って言うことがあるんです。
「信仰を司る(管理する)者」と「共同体を政治的・行政的に司る者」は、だいたいおんなじで。
また、しばしば、また別な場合にも。例えば、信仰を司るほうが、ある言葉を、神の言葉を受け取って。そしてそれを、その受け取った神の言葉によって、その、共同体を司る人たちが実際的に村を治める。って言うふうにね、
おんなじじゃあない、別のばあいにでも。たとえば「信仰を司る人」が「神のことば」を受け取り。その「受け取ったことば」によって、つぎは「共同体を司る人たち」が実質、村を治める。かのように、
共同体を治めるってのは、そういう形って言うのは、別々にあろうと同一人物であろうと、そういう形って言うのは非常に強力にあった。って言うふうに考えられる。
こんなかたちで共同体を治める。と言うのは、非常に強力にあったと考えられます。
そういう場合にね。そういうところではね、そういう時代においてはね。あのねぇ。ある、あの。ある、ある諺。ある諺。ある比喩。ある喩ですね。非常に普遍的に言えば、喩なんです。謎々、諺、喩ですね。そういうものをね、
そーいう場所とか時代では、「なぞなぞ」や「ことわざ」や「比喩」、つまりひじょうに普遍的に言えば「喩」と言うものを、
そういうものを解けるっていうことはね、解けるっていうこと。それがわかる、ってことはね、信仰がね、信仰が非常に強固だ。ってことを意味したわけです。
「解ける」や「わかる」てゆうのは、信仰がとっても強固だと言うことを意味した。
‥‥と。これってば、なんだか古代の時代的なのがなんとなくイメージできるよーな気がする。レキシの曲で言えば『旧石器ベイベ feat.足軽先生』みたいな。。。
そんなこんなでぇ、次回noteにつづきます〜!!
平成28年7月29日
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