表紙16

其の三十六 境界を設けないで

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(2008年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

どうも、こんにちはっ。前回noteでは、

【たとえば文学者なら文学者で、『この人は偉い人だな』という人や『この人はおれは好きでしょうがない』という人を例に取るとわかりやすいから例に取って。精神活動という面と、言語という面と、精神活動という面の三つを、いわば太い線でつなげてみたい。】

のことと、そして、

【もし、精神に異常とか正常とかの境界を設けないで考えるとすれば、そこのところは、この境界を持たないように考えることができるわけです。】

と吉本さんおっしゃったばめんでした。

ちょっと思ったんだけれども、この「異常とか正常とかの境界を設けないで」ていうのはさ、このまえ聴きました講演『喩としての聖書−マルコ伝』序盤での‥‥

【いつでも、宗教と宗教でないもの、信仰と信仰でないもの、信ずることと信じないこと、そういうことの境界を踏まえているっていうことが、たとえば思想にとって一番重要なことなんだって僕には思われるんです。】

‥‥というのとおんなじことをおっしゃっているかも? と思いました。それでは、つづきを聞くです。。。

で、このことは、少なくとも表現…。表現的な芸術言語にとっては非常に重要なことのように思います。(チャプター07 / 精神と表現の型_3:29〜)

「このこと」とは、つまり「境界を設けないで」と「太い線でつなげてみたい」のこととぞんじます。そして、

それを、抽象的におはなししてもいいんですけど。そうじゃなくて、あの。やっぱり具体的例を取っておはなししましょう。あの、たとえば、

たとえば、

えーと、僕が、この人は偉い文学者。つまり、日本の近代文学っていうのを、まあ、日本語の文学として考えて。この文学者として、この人は偉い人だ、っていうふうに僕は考えて。僕は。僕も考えてるし。たぶん割合に多くの人がそう考えていると思える人を例に取ればいいわけで。

「この人は文学者として偉い人だ。」っていうのを、自分が、そしてわりあい多くの人が考えていると思える人を例にとりますと、、、

というこんかいはここのところまでっ。このつづきは次回noteです〜。

平成28年9月19日



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