表紙16

其の三十五 太い線で

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(2008年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはっ!!!

前回noteでは、「第一に僕が考えたいことは、要するに、人間の精神活動と、言語と、それから言語の極限っていう、その3つをひとつなぎとして考えたい、っていうことがあるわけです。」と吉本さんおっしゃったばめんでした。

つづきをぉぉ。。。

で、そのために、えーと。僕が考えたことは、ひとつ、ひとつは要するに、あの。あるたとえば表現者を、たとえば、簡単な…。僕には手慣れた分野ですから、まあ、文学者なら、文学者っていう。(チャプター07 / 精神と表現の型_0:58〜)

たとえば、文学者なら文学者で、

特に文学者のうちで、自分が「この人は偉い人だな」っていう人とか、この人はおれが好きでしょうがないんだ、っていう人とかを例に取れば、いちばんわかりやすいから。まあ、例に取りますと。えー、取って。

「この人は偉い人だな。」ていう人や「好きでしょうがないんだ!」ていう人を例に取って、

精神活動っていう面と、それから言語っていう面と、それから精神構造、っていう面と。その3つを、あの、いわば太い線でつなげてみたいと思って。

「精神活動」と「言語」と「精神構造」というみっつの面をいわば太い線でつなげてみたい。

‥‥の、ここのところはさ、以前の「其の二十六」で聞きました

【人間の精神というものと、それから言葉というものと、それから、言葉の結果と言いますか、枝葉であるコミュニケーションというものと。その3つをいわば直結する問題を考えなきゃいけない、という問題が次に出てきます。】

のことですかねー??? えーと、たぶん、そうだとぞんじます。

講演をつづけます。

えー。その場合に、いま、申しましたとおり。表現行為っていうので、極限まで拡大したり、極限まで縮小したりすることができます。できるわけです。

表現行為というので、極限まで拡大したり、極限まで縮小したり。。

で、いま。極限まで縮小するとすれば、どういうことになるか? って言うと。人間の精神構造と、それから言語と、それから、あの。精神の枠を外すっていうこと、って言いましょうか。精神の枠を外す、っていうのは、つまり、

その「極限まで縮小する」とは、どーいうことか?! それは「人間の精神構造」と「言語」と、それから「精神の枠を外す」って言うか、その「精神の枠を外す」とは、つまり、、、

専門のお医者さんだったらば、こっからこういう行動とか言動とかでこっから外れたらこの人は精神異常だよ。って言うふうに、精神科のお医者さんはそういうふうな決め方をいたします。しかし、

行動とか言動とかを見て、ここから外れたらこのひとは精神異常だよ。って言う決め方ではなくって、

もし、精神に異常とか正常とかの境界を設けないで、設けないで。精神活動、あるいは精神構造というものを考えるとすれば、そこのところは、まあ別に境界を持たないってことになり。この境界を持たないように考えることができるわけです。

精神に異常正常の境界をもうけずに、精神活動や精神構造を考えるとすれば、そこのところは境界を持たないように考えることができるわけです。。。

なんというか。ちょっと、というか、かなり、ぼくにはむつかしいのだけれど。このつづきは次回noteで聞きます。そとは雨です。

平成28年9月18日



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