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ぼくには何も創り出すことができない。

ぼくは、おとうふが好きなんだなあ。

たとえば、
夏ならば冷やっこ、そして、
今の季節ならば湯どうふ、
なんて、もう、さいこうだし。
はたまた、どの季節だってもね、
麻婆豆腐はうれしすぎる。

そんなおとうふ好きのぼくなのですが、
そのおとうふがさ、
どういうふうにして創られているか?
ってゆうのはよく存じない。
原材料が大豆だということは、
知ってはいるけれども、でも、
大豆をどのようにしてから、そして、
にがり? なのかな?
そういうのがどんな作用を果たしながら、
おとうふという存在ができあがるのか、って、
ぜんぜん知らないんだなあ。

つまりはさ、
ぼくは、おとうふを
一から創ることができない。

そもそもを言えば、そんなおとうふを
いちばん最初に創ったひとって、
どのようにして考えられたんだろうか?
たとえば、おとうふというものが
まだ存在していない世界の中で、
このひとは、こういうふうにすれば
のちに「おとうふ」と呼ばれるものが、
できあがる、というのが、
わかっていながら創られたのか、それとも、
なんだかたまたまできてしまって、
おいしかったから、よしとしよう!
みたいなふうだったのか。

どちらとしても、ぼくには
おとうふがまだ存在しない世界の中で、
おとうふの原理をわかっていながら創り出すことも、
もしくは、たまたまのぐうぜんで
生み出すことだってもできないんだろう。

そう思うとね、
おとうふ好きのぼくとしては、
おとうふを創り出した方、そして、
おとうふ屋さんに、感謝なんだなあ〜。

でも、これってば、おとうふだけに限らず、
あらゆることに言えそうで。たとえば、
海苔も、醤油も、うどんも、餃子も、カレーも、炊飯器も、
冷蔵庫も、コンロも、家も、橋も、電車も、車も、電話も、
歌も、ギターも、コード進行も、ヘッドホンも、Spotifyも、
コンピュータも、カメラも、紙も、ペンも、ことばも、
ぼくには何も創り出すことができない。

こういうような、
「ぼくには何も創り出すことができない。」のことって、
このブログでも何度か書いているかもとも存じますが、
ぼくは、けっこう好きなのでして。つまりはさ、
なんにも創ることのできないぼくは、
人類の文明の歴史の中で発明され、そして、
受け継がれてきたものによって生きながら、
その恩恵を受けている。
そう考えてみると、なんだか、
すごいなあ、と感じるし、
不思議だなあ、とも思えてくるの。

おとうふ屋のおじさんと、
特別な味噌汁のことを想いながら。。。

令和5年1月20日


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