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じぶんなりにでも。

テレビや新聞やネットやアプリやSNSなどでは、
毎日、いろいろなニュースを見ることができる。
けれども、それらのニュースを、
毎日、どれだけの分量を見れば
世界のどれぐらいを知ることができるんだろう。

とは言ってみても、ぼく自身は
そこまでニュースを見ているほうでもないし、
世界及び国内の情勢について詳しくもないし、
きちんとした見識もないし、つまりは
知らないことだらけ、かつ、わからないことだらけだ。
でも、そういうようなニュースを
まったく見ていないわけでもない。

ニュースを見れば、
どんな良いことがあるか? とか、
ニュースとじぶん自身とは、
どのぐらい関係があるか? とか、
ニュースを見なかったら、
じぶんはどうなってしまうか? とか、
そういうこともよくわからないのですが。

ニュースを見る、ということについて
考えるときに思い出すのはね、
吉本隆明さんが著書の中で記されていた、
日本の「敗戦」のときの吉本さんのご経験のことです。
吉本隆明さんの『13歳は二度あるか』という書籍では、
敗戦という現実に直面したとき、吉本さんは
天地がひっくり返るくらい衝撃を受けてしまった、
とおっしゃいます。

 日本は負けたんだ——そのことを理解したときは、立っていられなくて、前につんのめりそうになりました。
 なぜ、つんのめるほどの衝撃を受けたのか。
 戦争中ぼくは、世の中の動きをまったくつかんでいなかった。自分の興味があること、じぶんの生活に直接影響してくることだけを見ていればいいと思っていた。だから、自分とは関係のないところで社会がひっくり返ると、お手上げになってしまったわけです。
 自分にはどうにもならないところで、世の中が180度変わってしまう。そういう経験をすると、大きな衝撃を受けると同時に、生きていること自体がむなしくなってしまいます。

吉本隆明さん著『13歳は二度あるか』だいわ文庫、19-20頁より。

つまり、じぶん自身とは関係のないところで
世の中が変わってしまうことがあって、
そういうときには、じぶんが
興味あることだけを見ていたら、
お手上げになってしまう。
なので、じぶんなりにでもよいから
ニュースを見て、聞いて、考えて、
そして、じぶんなりにでもよいから
世の中がどうなっているか、
をつかもうとする、そうすれば、たとえ
世の中が180度ひっくり返ってしまったとしても、
じぶんはじぶんだ、という気持ちを
持ち続けられるのではないか、
とのように吉本さんはおっしゃいます。

このようなことばを読みながら、書籍で何度か、
じぶんなりの判断や、
じぶんなりの理解で、よい、
とのように吉本さんが言われていたことは、
ものぐさでめんどくさがりのぼくとしては、
ひとつの救いだとも感じていたのですが。
でも、ほんとうはね、もっともっと
ちゃんときちんと見て聞いて考えないと
いけないんだとも思うけれども、
なかなかむつかしい、ってゆうふうにも
言い訳ぶってしまうのですが、いったい
どういうふうにしたらよいんだろう。

どれだけのニュースを見たとしても、
世界のすべては知ることできないだろうし、
たとえば、何が正しいか、とか、
どの意見が正しいか、とかも
ぼくは確実なことはわからないけれど、
それはもう、つまりは、
じぶんなりに考えるしかできないのでしょう。

そんなことをね、
今、また、あらためて考えている〜。

令和5年8月17日


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