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「食べる」について考えること。

このごろのブログでは、生きるのに重要なことは
「食べる」なのだと思い、
そのようなことについて記していたけれども。
そもそも、「食べる」という行為って
不思議だよなあ! って思える。

月並みな意見なのだとも存じますが、
「食べる」とは、動物や植物を
この身体へと取り入れることで、たとえば
「弱肉強食」や「食物連鎖」という語句もあるけど、
いわゆる、生物を殺して、
つまり、現代の農耕牧畜の社会では、
作物を収穫し、及び、家畜を屠殺し、
それらを食材としている。
そして、その食べたものが
じぶんの身体へと取り入れられることによって、
生きるための「エネルギー」と成っている、
と申しますか、もっと言うとすれば、
その食べたものがじぶん自身の
「身体」の一部と成っている、とも言える。

現代においては、人間が
他の動物から食べられる、というのは
基本的には、少なくとも日本では
無いとも思うのですが、
もしかしたら、遠い過去の時代では
人間が捕食されることもあったやもしれない。

一人の人が亡くなったあとには、
日本では火葬されてお骨となり、
お骨壷の中へと入り、そして
お骨壷に入りきらなかったお骨は、
その後、どのようになるのか、
というのはぼくは存じないけれども。
おそらく、ぼくだっても
死んだあとには骨と灰と成り、
地球の大地へと還ってゆくのだろう。

宇宙に存在する「水素」の量は、
宇宙ができた瞬間から変わっていない、
というお話しを聞いたこともあるけれども。
つまりはさ、ぼくの身体を構成している
「水素」だっても、ぼくが死んだら
宇宙へと戻り、そして、また
次の「なにか」を構成してゆく。

「食べる」というのは、
つまり、そういうようなことを
言っているんじゃあないか、って思うの。
このことをもっと言おうとすれば、
「食べる」ことによって、生物における
身体の構成を受け継いでゆくかのごとく。

そんなことを思いながら、ぼくもまた、
お肉を、お魚を、お野菜を、お米を、お菓子を、
そのほかの食べ物だっても、
有り難く食べてゆき、そして、排泄をしてゆく。
そういうのも、すべて、この宇宙における
「水素」の循環的なことなのかもしれないな。

令和6年3月19日