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ほんとうのほんとうに何を考えているか?

ハルノ宵子さんの著書『隆明だもの』を、
先日、読み終えました。
この書籍は、戦後思想界の巨人と呼ばれる
吉本隆明さんの長女・ハルノ宵子さんが、
平成24年に亡くなられた隆明さんのことを綴っておられて。
その書籍の帯には、
【故人を讃えない、型破りな追悼録。】
と記されているのですが、まさにそのような
故人を讃えない、と申しあげますか、つまり、
ほんとうの意味としてうそがないような、
というふうにも想いながら書籍を読んでおりました。

そのなかでもね、ぼくが一番印象に残っているのは
書籍の後半で掲載されている、ハルノさんと
吉本隆明さんの次女・吉本ばななさんとの姉妹対談にて
ばななさんのおっしゃっていた、隆明さんとは
【書いているものと食い違いがまったくない(246頁)】
のことです。つまり、
吉本隆明さんの書かれることばとは、
そのすべてがきれいごとではなく、そして
こう書いているけど裏では実はこうしてる、
みたいなこともまったくない。
そういうのって、当たり前なのだと思えるとも思いきや、
案外、ぜんぜんそうでもなくって、つまり
「言行一致」という四字熟語もございますが、
非常に大変なことなのだろう、とぞんじます。

たとえば、ぼくだってもこうして
日々ブログをしるしているけれども。
ことばって、書こうと思えば
できないことでも、かつ、うそのことでも
簡単に書けてしまうものだから、こわい、と思う。
ふと書いたことなのだとしても、
その書いたことにじぶん自身がしばられてしまう、
みたいな状況もありうると思う。

だから、ぼくならば、なるべく
うそにならないように、つまり、
弱く弱く、薄めて、なおかつ
責任も発生しなさそうにしるすこともおおいにある。
物事を断定しない、とか、
書きすぎない、とか、
悩み、そして、わからない、とか。
でも、そういう文章ですと、やっぱり
力がなくて、弱くって、
おもしろくもないのやもしらない。
けれども、ぼくは、もはや
そういうふうにしかブログも書けないし、また、
そういうふうに書かなければ、って
思っているふしもあると申しますか。

それはつまり、ぼく自身が、ほんとうのほんとうに
何を考えているか? みたいなことを、
じぶん自身で見つめたい、
みたいなことかもしれないけれども。
この「ほんとうのほんとう」ということばもまた、
たしか、吉本隆明さんが言われていたような
うろ覚えの記憶もあるのですが。
かと言って、ぼく自身が
そういうことをきちんとできているのか?
ってえのも自信が無いと言えば無いし、そして、
ここでこう書いていることもまた、
きれいごとを言っているのではないか?!
と思えてしまったりもする。

たとえば、吉本隆明さんと
ぼく自身とで比べるなんてえのは、
あまりにも、あまりにも、おこがましいですが、
書籍を読み終えそういうふうなことを考えておりました。

書籍の中で、ハルノ宵子さんのおっしゃっている
【「何か善いことをしているときは、
ちょっと悪いことをしている、と思うくらいが
ちょうどいいんだぜ」というのは、父の言葉だったと思うが、(27頁)】
というような、つまり
「何か善いことをしているときは、
 ちょっと悪いことをしている」
のこともまた、あらためて思い出している。

令和6年5月13日


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