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「ぼくはどう生きるか?」としか考えられない。

本当は公開日で観にゆきたかったけれど、
用事が入ってしまってこの日には行けず、
数日後、映画館にて宮崎駿さん監督
(「崎」の字は正式には「たつさき」)の映画作品
『君たちはどう生きるか』を鑑賞いたしました。

でも、観終わってから、この映画は
作品の感想とか解釈とか分析とか考察とか、
そういうことは記さないほうがよいやもしれない、
とも想いながら、その後も、このぼくのブログでも
具体的なことは記していないのですが。
いやはや、でも、だからこそ
うまくは言えないんですが、
映画、すばらしかったなあ〜。

映画を観て、やっぱり
じぶん自身の中でいちばん思ったことは、
「ぼくはどう生きるか?」
ということなのですが。

このことを考えるときにね、たとえば、
『君たちはどう生きるか』
とのように問われたとすれば、
「私たちはどう生きるか?」
と応えるのが本当はよいのやもしらないですが、
たとえば、その「私たち」とは
「日本人」とかなのかもしれないけど、それはそれで
ぼくには主語が大き過ぎる、と申しますか、
なおかつ、たとえば、ぼくが
「ぼくたちはどう生きるか?」
とのように考えようとした場合には、
その「ぼくたち」とは、いったい
「誰たち」のことなのか?! というのが、
じぶんでもよくわからないから。
ぼくとしてはね、そのような理由から
「ぼくはどう生きるか?」
という、つまり、その主語が
「we」ではなくって、
「I」で考えるほかできないな、とも感じたんだった。

ドラッカーの著書『経営者の条件』では、
経営者及び組織のリーダー、また、
組織に属する人ならば誰しもやもしれないですが、
成果をあげるために身につけるべき習慣の一つとして、
【「私は」とはいわずに、
 「われわれは」と考え、
 「われわれは」ということである。】
ということばが書かれておりまして。
(P.F.ドラッカー著/上田惇夫訳『ドラッカー名著集1 経営者の条件』ダイヤモンド社、14頁より。)
このことばを読んだときにね、ぼくは、
組織においては「私」ではなくって
「我々」と言う(考える)べきなんだなあ、
とは思いつつも、でも、この
「我々」という主語をきちんと言うことは、
大変なことなんだろうとも思ったんだった。

組織において、何かしらの
じぶんの意見があったときには、それは、まだ、
私個人の意見であり、そして、その意見を
組織内に伝えて、かつ、その意見を
組織のメンバーが周知して、そして、
メンバーの誰しもが納得できたときに、ようやく
「我々」という主語で言うことができる。
逆を言えば、これらの段階を踏まない限りは
「我々」とはまだ言えない。

このことはね、たとえば、
会社等の組織だけでなくって、
もっと小さなグループとか、
何かのチームとか、もしくは、家族とか、
そういう集団にも当てはまるともぞんじますが。
「じぶん自身だけの意見」を、勝手に
「我々の意見」だとは言えないし、言えば
不信感をもたれてしまうことだってもあるでしょう。

映画『君たちはどう生きるか』及び、
吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』という
このタイトルにおける「君たち」とは、
どういうことなのか? ってゆうのも、
ぼくはよくわかっていないけれども。
ぼく自身もまた、この
「君たち」の中には含まれていたんだとしても、
でも、ぼくとしては
「私たちはどう生きるか?」
とは問うことはできずに、
「ぼくはどう生きるか?」
としか考えられないんだな。

いや、でも、ぼくだってもね、
「ぼくはどう生きるか?」
だけでなくって、
「私たちはどう生きるか?」
って、一緒になって
考えられる人と出合えたら、
とも思うよ。

そんなことを思い馳せながら、
地球儀を回すように。

令和5年8月3日

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