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第47回 メタファーとすることができる。
【吉本隆明さんの講演『喩としての聖書−マルコ伝』をゆっくりゆったり聴く聴くシリーズ、だい47かいめ〜。】
こんにちはっす。
前回noteではね、聖書に描かれた「奇跡」のことを、「現実的にありうるわけないよ!」と見るでなく、「ことばだけのフィクション」と見るのでもなくって、、、
あの、もし、まったく成り立たないような2つの対象ですね、結びつけらんないような2つの対象。あるいは、連合することができないような2つの対象、って言うものも、もし、ある言葉に対する、ある信仰って言うものがあったとしたらね。そしたら、それはメタファーとして結びつけることができるんですよ。(チャプター09 / 奇跡とは何か_5:27〜)
以前のこの回のところでね、吉本さんは「聖書とは『言葉』を信じている。」とおっしゃっていたけれど。
たぶん、そのことがこの「言葉に対する信仰」なのだとして。その「信仰」が在ったとすれば、「奇跡」を「メタファー(暗喩)」として結びつけることができる! とは、つまり、、
だから、奇跡。奇跡の話しっていうものをね、聖書のなかの奇跡の話しっていうのはね、そういうふうに読む読みかたっていうのが、ありえますよ。って言うことなんです。
「メタファー」として読む読みかたも、ありえる。と。
つまり、これを全きフィクションとして読む、って言うね。こんなんデタラメよ、って言うふうな読みかたももちろんありうるし。
聖書での「奇跡」のことを、ひとつは「まったくのフィクションとして読む」っていう読みかたもありうるし、
また、本当に信じればそうなるんだよ、って言うふうにね。なるもんなんだよ、って言うふうに。ほんとうに信仰者の、信心(しんじん)としてそう読む、っていう人も居るでしょうけれども。
また、もうひとつは「信心として読む」という読みかたもあるでしょう、けれども。
僕は、そうでも無い。その2つでもない読みかたってのはありますよ。
そのどちらでもない読みかたも、ある。
それは、言葉っていうものに対する信仰って言うもの、信仰ってものが全くあるとすれば。あの、完全にあるとすれば、
つまり、「ことばに対する信仰」が完全に在るとすれば、
それは、全く結びつかないような2つの対象も結びつけて、1つのメタファーとすることができる。って言うことですね。
まったく結びつかないふたつの対象を結びつけて「ひとつのメタファー」とすることが、できる。
‥‥とおっしゃるこの「対象」ってのはさ、つまり「ことば」のことなのかなぁ?? もし、そーだとすれば、「ことば」を完全に「信じる」のであれば、どんなに離れている「ことば」同士だっても、それをつなげるような「メタファー」として読むことができる。ってこと??!
えーと、つまり、、
その、これをメタファーとして。奇跡の話しってのは、聖書のなかの奇跡の話しってのは、メタファーの一種。
という、「メタファーの一種」ってことはさ、「比喩」であり「たとえ話し」のことだと思うから。そこには、なんらかの「隠された意味」があるってゆうことなのだと、ぼくは思いました。そーいうふうに読む読みかたもあるよ、と。
んでも、それは例えばわかりやすい「あなたの目はゾウだ。」みたいには、かんたんに読むことはできなくって。
だけれども、見つけることのできにくい「意味」がある、ていうふうに「読む」こともできる。
もしも、「ことば」を信じているのならば。。。
てゆうことなのでしょーか???
しかも、それは全く結びつけることができないような。常識じゃ結びつけることができないような、2つの対象を結びつけようとしているメタファーなんだ。っていうふうに読む、っていう読みかたもあります。って言うことを、あの、申し上げたい。ってことなんです。
というわけで、こんかいはここまで〜。「チャプター09」が終わりましたので、次回noteよりまた新しいチャプターへと入ってまいりますっ。こんしゅーもがんばってこー!!!
平成28年7月25日
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