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折りにふれて。

「折りにふれて」ということばをね、
たびたび、このブログでも
書いていると思うんですが。

そのことばを知ったのは、
さいきんのブログでも書いております
武富健治さんのマンガ『鈴木先生』、
第1巻の最初のエピソード
「@げりみそ」の中で書かれていて。

このお話しを読みながら、
「折りにふれて」
ということばがなんだかよいなあ、
と思ったのよね。

ことばの意味合いとしては、
広辞苑(第七版)によれば、、

【折】—に触れる
1 その時の事情・場面によく調和する。
  徒然草「折にふれば何かはあはれならざらん」
2 (「折に触れて」の形で)機会あるごとに。
  「折に触れて注意してきたのだが」

‥‥とのことですが。

この場合では、
「2」の用法だとはぞんじますが。
『徒然草』では、
べつの意味として使われていたのだねえ。
そちらのほうが使われ方としては、
はじめなのでしょう。

『鈴木先生』の中ではね、
「鈴木先生」が、
ある生徒の両親と面談をしているとき、
大学の講師をされている生徒のお父さんが、
相手を打ち負かすような「話し合い」では、
ときに、
生徒の内面での葛藤を乗り越える
大切な成長の機会が失われてしまう。だから、
「生徒それぞれの胸の内で
 思考を熟考させる機会を与える」
ためのひとつの方法として、、

教育は 折りにふれ
では ないでしょうか?

‥‥とのように言われていて。

この「折りにふれて」のことばを、
その後、
「鈴木先生」も心に秘める。
という、ストーリーの流れなのですが。

なんだかうまく言えないんですが、
おそらく、人間は
一気には成長できないからこそ、
葛藤を続けながら、
葛藤を乗り越える。
というプロセスが必要で。

その「葛藤」を乗り越えるためには、
「折りにふれて」
が、たいせつだ。
というような感じなのでしょうか。

だもんで、ぼくとしても、
じぶんのブログで、たびたび
「折りにふれて」
と、折りにふれて、書いているのは、
じぶん自身でも、そういうプロセスを
歩もうとしているやもしれない。

いや、知らんけど。

でもなんだか、これからも
「折りにふれて」
で、やってゆきたいなあと思います〜。

令和2年9月27日


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