見出し画像

「聞き分け」と「心の磨耗」のこと。

映画『となりのトトロ』の最後、
サツキとメイのお父さんとお母さんが
病室で話しているシーンでね。

お母さんが、
「サツキなんか、聞き分けがいいから、
 なおのことかわいそう。」
って話すシーンを、
大人になってからあらためて見たとき、
「聞き分けがいい。」
というのは、いいことばかりじゃあなくって、
つらいことでもあるんだなあと思ったのよね。

「話しを聞く」ことは、
とてもだいじなのだとしても、
「聞き分け」がよいか? というのは、
それを「言う」側にとっては
手がかからないとしても、
「聞く」側にとっては
我慢している場合もあるやもしれないから。

という、このことでまた思い出すのは、
さくじつのブログでも書きました
武富健治さんのマンガ『鈴木先生』での、
「第5巻/@掃除当番」
の回で「鈴木先生」が話されていた、、

今の学校教育は
我々が普段
思っている以上に——
手のかからない子供の
心の磨耗の上に
支えられているんだ…
(武富健治さん『鈴木先生』第5巻「@掃除当番 その4」より引用です。)

今の学校教育は、
手のかからない生徒の心の磨耗の上に
支えられている。ということばは、
はじめて読んだとき、
なんだか、はっとしました。

教室には、
問題児のような目立つ生徒、
だけではなくって、
手のかからないような生徒もいて。

そして、むしろ、
手のかからない生徒たちの
「心の磨耗」、つまりは、
生徒同士の助け合いや思いやりによって、
教室や学校や教育が支えられている。

おそらくはさ、
「心の磨耗」というのは、
ただ表面を見ただけでは、
わかりにくいのだろうし。
もしかしたら、その生徒自身でも、
じぶんの「心」が「磨耗」していることに
気づきにくい。
ということもあるやもしれない。

ぼくはげんざい、
しがないパートの学習塾講師ではあるけれど。
これらのような、
『となりのトトロ』のお母さんが話していた
「サツキなんか、聞き分けがいいから、
 なおのことかわいそう。」
のことと、
マンガ『鈴木先生』の「鈴木先生」が話されていた
「今の学校教育は、
 手のかからない生徒の心の磨耗の上に
 支えられている。」
のことは、折にふれながら、
考えていたいの。

ってゆうような、
そんなことを思った、
長月、セプテンバーも暮れるころ。

令和2年9月26日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?