「未来からの視線」
前回noteでは、糸井重里さん著『思えば、孤独は美しい。』より「未来からこっちを見る」ということばについて、またふたたび申しあげました。
するってぇと、ある方(ナランチャさん)より「言葉では簡単のようですが未来に自分を立たせるのは難しそうです」というコメントをいただきまして。
たしかに、そうだなあ、と思いながら。
えーと、たしか、そういえば糸井さんがある日のほぼ日の「今日のダーリン」で、このことについて具体的に書いておられたなあ。ってのを思い出しまして。
こんかいnoteでは、じぶんのHDDに保存してあったその日の「今日のダーリン」の引用を、以下にて、昨日申したとおりの「コピー&ペースト禁止」で申しあげまする。。。
・よく、ぼくは「未来からの視線」と言うのだけれど、
実際に、じぶんの目玉が未来にあるわけではないので、
そんなことできるわけがないと思われそうだ。
しかし、これは、そんなにむつかしいことではない。
たとえば、東京にいる人だったら、
皇居前に立ってみよう。
お堀の石垣が目に入る。
「どうやって積んだのだろう、簡単じゃないぞ」。
これは、石垣が積まれた過去に向けて、
現在という(江戸時代にとっての)未来からの視線だ。
こんどは、振り返って、交差点を見てみよう。
「たくさんの自動車が通っている。
人びとが歩いている、ランナーたちが走っている」。
これは、現在から、現在を見ている視線である。
いつもは、こういうふうに世界を見ているわけだ。
同じ場所から、同じ景色を、「未来からの視線」で見る。
ここでおまじないのことばが必要になる。
「なつかしいなぁ、昔は、こんなだったんだなぁ」と、
無理やりにでも言って、そう思うようにするのだ。
「この時代の自動車って、こんなデザインだったんだ」
「ほとんどが、ガソリンで走ってるもんなぁ」
「運転している人、たいへんだったろうなぁ」
すべて、なけなしの知識と想像で言っているのだけれど、
これはいちおう「未来からの視線」ということだ。
「クルマどうしが衝突するかどうかは、
人間の注意力にゆだねられているんだ、恐ろしいな」
なんてことも思うかもしれない。
じぶんが、未来の人間だという思いこみをして、
いまの時代を「過ぎ去った昔」として観察するのだ。
幼稚園でこどもたちを見たら、
「わぁ、こんなに幼かったんだ」となつかしむ。
書店でベストセラーの平積みを見たら、
「こんな本が売れてたんだよなぁ、なぜだっけ?」と、
終わったこととして思いだす。
若いアイドルを「わぁ、若いなぁ」と苦笑しながら見る。
こんな遊びのなかに、ほんとになにかが見えてくる。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
冗談だったり遊びだったりで、未来人ごっこをしてみよう。
(ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」(平成29年12月22日)より引用です。)
‥‥という。。。
つまり、糸井さんのおっしゃるには、現在の風景を見ながら、無理やりにでも「なつかしいなぁ、昔はこんなだったんだなぁ」とおまじないのように言って、そう思いこむようにする。そして、そんな「未来人ごっこ」の遊びとしてやってみることで、なにかが見えてくる。と。
ぼくとしては、こういうの、ちょっとずつでもいろいろやってみたい〜!!!
平成30年2月1日
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