見せるとか、見せないとか。
前回noteでは、このごろふと思い出しました
「背に腹はかえられぬ」
ということばのことについて、
じぶんとしては、そのことばの意味が
あんまりわかっていないなりに、
じぶんなりに思ったことを書いてみたけれど。
このことを書いてから、昨日、さらにね、
「背中」と「お腹」のことを考えていたの。
「背中」と言えば、
たとえば、武士が
敵に「背中」を見せない。
というものもあれば、
はたまた、父親が
息子に「背中」を見せる。
というものもあれば、もしくは、
銭湯やお風呂では、年配の方に対して
「お背中、流しましょうか?」
というものもあると思うけれども。
「背中」とは、
じぶんの目では見えない部分であり、
じぶんの手では届かない部分であるからこそ、
人間の弱点でもあり、また、
人間の大事なところでもあると思う。
その反対にね、
「お腹」と言えば、たとえば、
犬が、信頼する主人だけに
「お腹」を見せる、
みたいなこともあるとぞんじますが。
そしてまた、
武士が「切腹」をする、の如く、
「お腹」とは、やはり、
臓器の詰まっている場所でもあるし、
命に関わる部分なのだろうと思われる。
この「お腹を見せる」のことで
ふと思い出したのはさ、
「お腹」でも「背中」でもなく、
「手」のことなのですが。
手相を見る占い師の人が、
ある政治家に対して
「あなたの手相を見ましょうか?」
と言ったら、その政治家は
「私の手の内は明かせられない。」として、
手相を見ることを断った、
というエピソードでして。
つまりはさ、「手の内」とは、
その人のすべてが記されている、の如く、
重要な部分でもあるやもしれないな。
「背中」や、「お腹」や、
「手の内」だけでなくって、たとえば、
口で言わなくとも考えや気持ちが
外に現れていることの比喩として、
「顔に書いてある」
という表現もあるし。
さらには、
「目を見ればわかる」
という言い方もあって。
そう考えてみると、
人は、どれだけ、
本心が現れているんだろうか。
たとえば、なんだろう、
「腹」を割って話したとしても、
その中に、はたして、その人の
本当の気持ちがあるのかどうかも、
ぼくにはわからないんだなあー。
令和4年7月18日