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過去の時間には戻れないからこそ。

このごろのぼくのブログでは、
「歴史」とは、どういうことなのか?
みたいなことをね、じぶんなりに
考えてみたことを書いていたけれども。
それを書きながら思ったことはさ、
どんな「歴史」にも、
なにかしらの「根拠」があって、
つまり、逆を言うと、
「根拠」が無ければ「歴史」にはならない、
ってゆうことかなあ???

「根拠」について考えると、でも、たとえば、
文章やことばによる文献の資料って、
「嘘」だったり、いや、
「嘘」とまでは言えなくても
「勘違い」だったり、もしくは、
「間違い」だったり、などなど、
想像してみると、そういうことも
ぜったいに無い、とは言い切れないやもしれない。

ぼくは素人なので、
くわしいことは何も言えないんですが、
おそらく、たとえば、
ここにこう書かれてあるから、即、
これを「歴史」の出来事としよう。
というふうではなくって、
ここにこう書かれてあるとしても、これは、
時代的に矛盾はないか、とか、
他の史実と合わせて辻褄は合うか、とか、
どこかに錯誤や齟齬はないか、とか、
などなどを考えられたのちに、
「歴史」になった歴史もあれば、それらの中には
「歴史」にならなかった歴史もあるかもしれない。

これってさ、なんだか、ふと、
「裁判」と似ているような気がするなあ、
って思ったのよね。

とは言ってみても、これまた、
素人なので詳しいことは言えないんだけれども。
刑事事件ならば、
警察官が取り調べをしたり、
検察官が捜査をしたり、
証人が供述をされたり、
弁護士が立証をされたり、
することによって証拠を集めて、
裁判官が判決を行う。

過去に起きたことは、
過去のその場に居なければ、
そこで何があったか、って、
わからないからこそ、
あらゆる証拠を繋ぎ合わせながら、
「裁判」が行われる。
と、イメージをするのですが。

過去に起きたことというのは、たとえば、
「1時間前」でも、「1日前」でも、「1か月前」でも、
「1年前」でも、「10年前」でも、「100年前」でも、
「1000年前」でも、「1億万年前」でも、
どれも過去なのだから、もう、
その過去の時間には戻れないからこそ、
調べたり、考えたり、想像したり、
することによってでしか、見えないことがある。

そういう意味ではさ、
「歴史」も、「裁判」も、
似たようなところがあるやもしれない、
って思ったの。

ともすれば、ぼくだってもさ、
ぼく自身の個人の「歴史」についても、
記憶したことを思い出す、だけでなくって、
どこかに記録しておくことによって、
それが「根拠」となって、
見えることがある、とも言えるかなあ?!

そんなことをね、
なんか、思ったんだった〜。

令和4年11月16日


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