20190831空

令和元年8月31日に想うこと。

ほんじつは8月31日、ということで、
ぼくも「#8月31日の夜に」のことを記してみたい、
とも想いながら、でも、
じぶんには、言えることなんて何ひとつないんだわ。
というのも思ってしまう。

たしか数年前から言われていたとぞんじます
「#8月31日の夜に」のことを、
ぼくは、話題になる前は全く知らなくって。

そして、ぼく自身のことで考えてみても、
「学校に行きたくない。」と思ったときはあっても、
「夏休みの終わる日」にそう嘆いたことが、
あったのか、なかったのか、憶えていない。
そもそも、ぼくは小学1年のときに
斜視の手術で2日3日学校をおやすみした以外は、
小中高とすべての日で出席しておって。
(大学のときとかは、休んだりしたけれども。)
学校がすきだった! って言うよりも、
じぶん自身が、学校に行くべきなんだ、と、
思おうとしてたやもしれない。。。

げんざい、ぼくは学習塾講師のアルバイトをしてるので、
日々、数十人かの小中学生の生徒たちと接してはいるですが。
その彼ら彼女らが、内心では、
どう想っているかは全然わかっていない。

ぼく個人としてはさ、こう言ってしまっては
かんぜんに塾講師失格なのかもしれないけれど、
学校の勉強なんてどっちでもいいんじゃん、
とも思っているふしがある。
勉強しようとする生徒はそれはそれですばらしいし。
勉強したくないという生徒だっても、
なにかよいところがあるわけだし。
そして、学校の勉強が「絶対善」だとも思えない。
でも、そういうのが教育として決まっておって。
だからこそ、まったく「わからない」よりかは、
すこしでも「わかる」ほうが、日々の学校生活の授業も
ちょっとたのしいんではないかなあ。って思うの。

なので、じぶんで教えられる範囲であれば、
教えようとする。ぼくにはわからないことであれば、
社員の先生方にお願いをする。

ぼくにはさ、
彼ら彼女らの生徒たちに
なにかメッセージとかは言えないし。

ただ、たんたんに日々のバイトをするのみだけれども。

なるべくならば、
生徒たちがどう想うかは知らないけれども、こういうぼくと接することで、
生徒たちが、日々を
「だいじょうぶ!」とか「オールライト!」とか、って、
想えるようであれたら。と願う。

そして、
たとえば、むこうのほうに崖があれば、
「そっちは崖だからあぶないよ。」
というふうに言えるようであれたらなあ。と祈る。

そうこうしながら、
きょうも、あしたも、あさっても、しあさっても、いつでも、
この一面は、ライ麦畑でひろがっているんだ。

令和元年8月31日


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