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じぶんへの批判はなされないのではないか?

最近のブログでは、幾度かにかけて
「批判」ということについて書いているのですが。
昨日にはね、「批判」のコミュニケーションとは、
上の立場の人から下の立場の人へと行われる、
つまり、同等の立場の人同士の場合では
「批判」は許されない、
という仮説を考えながらしるしたけれども。
仮にね、この仮説より考えてみるとすれば、
結局のところ、否定的な意味合いもある「批判」って、
たとえその意見がまっとうだったとしても、
相手の気分を害される場面も想像できるからこそ、
なかなか行われないこともあるんだろう。

つまりはさ、
じぶん自身の行動や言動において、
よくない部分及び間違えている部分などを
じぶん自身では気付けないことがあるとして、
でも、それを、たいていの場合は
誰からも指摘なされない。
先生とか、上司とか、先輩とか、親とか、
そういう人たちからは言われるやもしらないけど、
友人とかからはなかなか言われない。
言えば角が立つこともあるんだから。

そしてまた、その
先生や上司や先輩や親という立場の方々は、
そのまたさらに上の
先生や上司や先輩や親の立場の人たちがおらなければ、
ご自身の批判を聞くこともできない、
という状況もあるやもしらないか。

「裸の王様」とか、
「イエスマン」とか、
「言われるうちが華」とか、
そういうようなことばもあるともぞんじますが。
どうしたら、
「裸の王様」には成らず、
「イエスマン」を集めず、
「言われる」という「華」を咲かせられるか、
というのも、やはり、とても
むつかしいことなのだとも思われる。

小説家の村上春樹さんは、最初の原稿が完成すると
まずは奥様に読んでもらい意見を聞いて
「ここがよくわからない。」などなどを言われれば、
やはりよい気分はしないものの、
でも、その部分を書き直す、
というお話しを書籍で読んだことがありまして、
素敵だなあと感じたのですが。

つまり、このことより考えるともすれば、
じぶん自身以外の誰か信頼し合える人からの批判、及び、
じぶん自身の中で行うじぶん自身への批判、
というどちらかでしか、
じぶんへの批判はなされないのではないか?
とも考えているのだけれども。
また、このほかの手段としては
目の前の相手が、じぶん自身に対して
今、批判を思いついたけど、その相手が
その批判を口にしなかった場合、相手の
「今、言わなかった」ことに気づいて、かつ
「今、何を言わなかったか」を想像する能力が
重要? いや、はたしてそんなことが
可能なのかどうかわからないけれど。
あまりにもだめだめなぼくは、そうでもできなければ
生きていけないような気がするの。

そんな「批判」のことは、
まだまだじぶん自身の中で
折に触れて考えてゆけたら。

令和6年1月27日

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