許されない批判と信頼と尊敬のこと。
このごろのブログでは「批判」について
考えていることをしるしているのですが、
昨日はね、「批判」とは
「否定」的な意味合いもあったとしても、ただ
「否定」をしているのではなく、そこには
「批評」の目のようなものがあるのではないか?
みたいなことを申しながら、でも、やっぱり、
「批判」されるのはこわいし、なおかつ、
「批判」のコミュニケーションも、ある意味では
とっても大切なことなのだとしても、でも、
非常に困難なことだともぞんじます、と申しあげました。
そんな昨日のブログの中で
「非常に困難」と申していたですが、
もっと突き詰めて考えるならば、他人に対して
「批判」をすることって、
ほぼ無理なことなのではないか? もしくはさ、
ほとんど不可能なことなのではないか? とも思うの。
おとといのブログではね、
「批判」について辞書で調べてみると、
「批判」とは「批評」であり、
「批評」とは「評価」である、
のような解釈ができるとも思ったのですが、この
「評価」についてぼくが感じるのは、たとえば、
先生から生徒へ、とか、
上司から部下へ、というような
上の立場から下の立場へと下されるもの、
つまり、悪く言うとしたら
「上から目線」のような雰囲気も感じられる、
と申したんだけれども。
そう考えてみるならば、
「批判」というコミュニケーションとは、
上の立場の人が、
下の立場の人へと行うもの。
という言い方だと、
ちょっとしっくり来ないな。
つまり、上の立場からなされれば
「批判」されても、
しょうがないと思える、というか、
それを許すことができ、かつ、その
「批判」を聞くこともできる、言い換えれば、
「批判」というのは
上の立場からのみ許される行為である、
とも言えるのかなあー。
つまりはさ、同等の立場の人同士では
「批判」は許されない。
ここでは詳しくは述べないけれども、
そういうのはぼくも以前経験がございまして。
ぼくが伝えた「批判」によって、その相手と
修復不可能のごとくな関係性になってしまったことがある。
そのとき、その相手からは、ぼくが
「上から目線」的なことを伝えられたのだけれども、
でも、ぼくとしては
「上から目線」というよりかは、
どうしようもなく思いついてしまったから。
どうして、その「批判」のような考えを
どうしようもなく思いついてしまったかと言えば、
たぶん、おそらく、
じぶん自身が傷ついたから、だと思っている。
つまり、相手によって傷ついたので、
その旨を伝えようと思った。
そして、この旨を伝えるために、ぼくは
「批判」という枠組みを使った。
相手にとったら、迷惑な話しだとも思ったけれども
ぼくはぼくで言わざるを得ない状況に置かれながら、
ある意味では、
言っても地獄、
言わなくても地獄、
というような状況下で、でも、もしかしたら
相手はこの話しを聞いてくれるのではないか?
という一抹の期待、及び、
相手への信頼をたずさえながら、
伝えようとしたものの、それは、叶わなかった。
このことをあらためて考えるとすれば、
ぼくは許されない行いをし、つまり、
すべて、ぼく自身が悪い、
と思うほかないし、そして、そんなことを
思いつかない人間になるほかないんだろう。
でも、ぼくは、
そう思いついてしまった。
そんなことを思いついてしまうぼくは、
許されない人間なんだなあ、って思うよ。
彼はね、そんなぼくのことを
「尊敬できない。」とおっしゃった。
このことより考えるとすれば、
尊敬できない人間からの「批判」は聞かないけど、
尊敬できる人間からの「批判」は聞く、
という意味なのだろうか、とも思われるけれども。
つまり、この
「尊敬」という概念もまた、いわゆる
「尊敬できるかできないか」というような
二項軸による上下関係性のようなものなのかなあ?
と考えるようになって、以後、その
「尊敬」ということばもこわくなってしまった。
ぼくはぼくで、もう、誰のことも
「尊敬しない」ようになることができたら、同時に
「尊敬できない」という感情も生まれなくなって、
そうすれば、ぼくは、ぼくへの
「批判」も聴くことができるようになるやもしらない。
そんなことをね、以前、思ったのでした。
令和6年1月26日