絶句するほうが正しいこと。(授けられたことば_mix)
さくじつのブログでは、ぼくはもう
幼少のころより、しゃべるときには
ことばに詰まってしまって、
うまく言えない場面が多々あって。
このことはさ、大人の年齢に成った今でも
克服できてない、と申しますか、
とっさになにかを話す、ってゆうのは
苦手だなあと思っている、
みたいなことを申しました。
そして、そういうような
ことばに詰まってうまく言えないときには、
フリーズというか、絶句というか、
でも、そこからなにかを言わなければ
という思いからさらに焦って、その場に
そぐわないことばを言ってしまったりもする。
かと言いつつ、ぼく自身は、そんな
ことばに詰まってしまうような性質なんだから、
今後、これから、どんなときにでも、
すっと、さらっと、適切なことばを
きちんと言えるようになれる、
というのはむつかしい、とも思われる。
そういうようなことを考えるときにね、
ぼくが思い出すのは、内田樹さんの著書で書かれていた
とあることなのでして。
そのとあることというのは、内田樹さん著
『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』より、
【想定外の問い】についてのことです。(講談社文庫、38頁〜)
たとえば、教育の場において
子どもたちから先生へと
「これは何の役に立つんですか?」
とのような質問をしてこられたとして、このとき、、
そのような想定外の質問には、
絶句するのが当然の対応である、と、内田先生はおっしゃいます。
むしろ、このような想定外の質問に対して
「それはね」と、すらすら答える教師がいたら
そのほうが警戒心を抱く、と、その後では書かれていて。
つまり、想定外の質問に対しては
「驚愕のあまり絶句する」というのが、
まっとうである、とのことであり、いわば
【答えることのできない問いには答えなくてよいのです。】
(同著、42頁より。)ともおっしゃっている。
ある箇所の引用及び内容をかいつまんでの説明なので、
内田先生の言われる真意を、ぼくがここで
きちんと説明できているかはわからないけれど、
ぼく自身もね、このこと、
なんだかわかるような気もしている。
つまり、ある場面において、
すらすらと答えられるよりかは、
絶句するほうが、正しい。
という状況もたくさんあるんだと思える。
そういうふうに考えるともすれば、
ぼく自身も、あるとき、
ことばに詰まってうまく言えないような場合には、
それは、それで、ぼくなりには
そのほうが自然であって、かつ、そのほうが
まっとうなのだとも考えられるやもしらない。
と、このように考えるならば、
うえで申しあげましたような、
なにかを言わなければという思いからさらに焦る、
という気持ちも無くなるのかもしれない、とも思えてきて
気持ちが楽になる気もしてくる。
このことを考えながらまた思い出していたのはね、
吉本隆明さんの講演『喩としての聖書』の中で
吉本さんがお話しをされていた、
「新約聖書・マルコ伝」で記されているとされる
【授けられた言葉を言え】のことです。
つまり、「新約聖書・マルコ伝」では、
ことばとは精霊が言わしてくれるのだから、
思いわずらうことなく、ただただ
出てきたことばを言え、とされている。
そして、吉本さんがさらにおっしゃっていたのは、
そのようなあるがままの自然状態で言われることばには、
必ず、自分自身の持ち物に背かないものだ、
ともお話しされていて。
なんだか、そういうような、
自分自身の持ち物に背かないことばを言えたら、
ってゆうのをあらためて思っているのよね〜。
令和6年9月26日