見出し画像

具体的と抽象的。

さくじつのブログでは、
宮沢賢治さんの『雨ニモマケズ』を引用しながら、
じぶん自身が、
どういうものになりたいか?
みたいなことを書いたのですが。

賢治さんの
『雨ニモマケズ』で記されていることは、
そういえば、ある意味では、
抽象的だなあと思いまして。
それとはぎゃくに、たとえば、
子どものころに訊かれる「将来の夢」としての、
何になりたいか? ってゆうのは、
具体的だよなあ。とも思ったの。

つまりはさ、
「なりたい?」的な問いの答えには、
「具体的」と「抽象的」という
二種類のパターンがある。

「抽象的」ではよくわからないから、
「具体的」に言うことがたいせつだ!
ってゆうふうに言われることも、
ときに、あるとも思うけれども。

「具体的」って、なんだか、
かなりつよい。と言うか。
「具体的なことば」はさ、
具体的にあるがゆえに、そのことばに
縛られてしまうこともあるような気がして。
ふとしたときにじぶんで言った
「具体的なことば」に、
じぶんが決められてしまう。みたいな?!
ぎゃくに、
「抽象的なことば」ならば、
抽象的であるがゆえに、
ことばに縛られずに、より自由でいられる、
みたいなこともあるような?????
うまく言えないんですが、
なんだか、そういうことも
あるような気がするのよねえ。

宮沢賢治さんの『雨ニモマケズ』が、
でも、実際的に、
抽象的なのか、具体的なのか、という、
内容のことはよくわかっていないけど。

ひとことでは言えないようなことを、
なんとかして、
ことばを付け加えながら、
ことばを言い換えながら、
ことばに疑問を思いながら、
ことばでは言い切れないと感じながら、
具体と抽象を行ったり来たりしながら、
そんなふうにしながら、
考えたいとおもっている。

よくみきしわかり そして わすれず

令和3年2月16日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?