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青春の音楽と架橋と冷静なる情熱。

このごろのブログでは、先日、神原一光さんの著書
『WOWとYeah 小室哲哉 起こせよ、ムーヴメント』
を読んでから小室さんの音楽をあらためて聴きたくなって、
2018年リリースのコンピレーションアルバム
『TETSUYA KOMURO ARCHIVES BOX』をね、
ドライブのさなか聴いていることを申していたですが。
そんなふうにして、小室哲哉さんの音楽を
今もまた聴いているぼくは現在42歳で、
10代だった1990年代のね、とくに半ばごろ、いわゆる
「小室ファミリー」の曲が大好きだった。

当時、中学生高校生だったぼくは
案の定お金もぜんぜん無かったので、
CDはなかなか買えなかったけれども、
レンタルだったり、テレビの音楽番組だったり、
もしくは、オリコン誌でランキングをチェックして
一喜一憂していたり、そして、ときには
アルバムを購入してはヘビロテで聴きまくったり、
というふうにして音楽を聴いていたと思う。
それらのなかでもね、やっぱり
小室ファミリーの音楽はぼくの中では別格で、
毎週のごとくリリースされていたようにも思い出されてくる
小室哲哉さん(TK)プロデュースの作品にはまっていて、
はたまた、そこから過去作の曲、つまり、ぼくは
リアルタイムでは存じなかったTM NETWORKの音楽も、
さかのぼるようにして聴いたり。
って、そういうふうに考えてみると、いわば、
ぼくの青春とは「TK」だった!
って回想できる気がする〜。

とは言えども、でも、それはつまり
「はまっていた」という語句を言い換えれば、
かぶれていた、もしくは
傾倒していた、と言えるとも存じますが。

TKサウンドの音楽を夢中になって聴きながら、
でも、とあるころ、小室さんの音楽には
音楽的な価値が無い、というような、つまり、
批判的な声も聞くようになった。
音楽だけに限らず、あらゆる作品に対しては
人それぞれ好き嫌いもあるのだから、
しょうがないとも思いつつ、けれども、
当時、かぶれているように聴いていたぼくは
こういうふうなことについて、
どう考えたらよいのか? ってえのはさ、
いまだよくわかっていないの。

たとえば、神原さんの著書『WOWとYeah』の中では、
坂本龍一さんが小室さんの音楽について
「日本人の耳を教育してしまったところがある」
とのように言われていたことが記されていて。

 2023年、71歳でこの世を去った音楽家で元YMOの坂本龍一も、小室の才能を認めたひとりだ。1995年当時、テレビ番組で小室と対談した坂本は、小室の音楽について「メロディー・ライン、転調、アレンジ、ビート感を含めて、日本人の耳を教育してしまったところがある」と独自の表現で最大級の評価をし、楽曲の共作やライブでの共演も果たしている。

書籍9-10頁より。

つまりはさ、ぼくも、そのような
「教育されてしまった」うちの一人だろうと思うけど。
でも、思えば、坂本さんのこのことばって
良くも、悪くも、なのだろうとも感じられる。

音楽の価値、もしくは、日本の音楽史における
小室哲哉さんの作品群とは、
どういうものであるか? というのもね、
ぼくにはまったく述べられないし、なおかつ
じぶん自身の青春時代で大好きだった音楽だからこそ、
冷静に見ることもできないけれども。

このこととは、なんだか、たとえば
太平洋戦争の戦中に少年時代及び青春時代を過ごされて
そしてのちに思想家となられた方々が、
軍国主義だった当時に少年時代だったじぶん自身たちを
全否定をせず、かつ、全肯定もせず、なんとかして
当時と現在とを思想的に架橋する、
というような評論を読んだこともあるのですが。
そういうようなこととね、その規模は
あまりにも違い過ぎるとしても、
ならば、ぼくは、ぼくなりに
全否定もせず、かつ、全肯定もせず、
でも、やっぱり、大好きだったし、
今、聴いても大好きだ! と思うような
小室哲哉さんの音楽のことを、
どうにかして考えられたいの。

けれども、そんな、やっぱり、
きちんと考えることは、
むつかしいのやもしらない。

2018年リリースのコンピレーションアルバム
『TETSUYA KOMURO ARCHIVES BOX』にも収録されている、
坂本龍一さん×小室哲哉さんの『VOLTEX OF LOVE』がさ、
めちゃくちゃかっこいい!!!
アルバム封入ブックレットでの曲解説では、
【教授の好きなコードからセッション風に展開され、
 真夏の夜にぴったりの清涼感ある冷静なる情熱を
 イメージしたライブ音源】
と記されているですが、そういうような
清涼感ある冷静なる情熱を真夏の夜に感じたい。

令和6年6月7日


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