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つるかめ算となにかを知ること。

ツルとカメの頭の数は50で、足の数が合計156本のとき、
ツルは何羽、カメは何匹でしょう?
という問題は「つるかめ算」と呼ばれているけれども。
この解き方としては、まずは、
すべてがツルだったと考えてみる。
ツルの足は2本なのだから【50×2=100】、つまり、
すべてがツルならば足の合計は100本となる。
でも、この問題では156本となっているので、
この差は【156-100=56】で、
56本分がカメなのだと考えられる。
そして、足が4本であるカメを
一匹ずつ増やしてゆくと、、

ツルがカメへと一匹ずつ置き換わるから、
【カメの足(4本)-ツルの足(2本)=2本】つまり、
足の合計が2本ずつ増える。
問題では足の合計が156本なので、この
「2本」がどれだけ増えているのか、計算式で言えば
【56÷2=28】となるので、
カメが28匹となり、頭の合計は50なので、
ツルは22羽となる。

‥‥のようなふうにして解いてゆくとは存じますが、
これは小学生における算数の解き方で、
中学生の数学では「連立方程式」を習うので、
その解き方で解くとするならば、、、
ツルをx羽、カメをy匹として、
 x+y=50
 2x+4y=156
という方程式を作り解いてゆく。

連立方程式は中学2年生で習いますが、
この方法で解けば、「つるかめ算」も
表を書いたり理屈を考えたりしなくとも、
さくっと答えを出すことができてしまって、
画期的だなあ! って、当時の
授業で習ったときに思ったのか、もしくはさ、
もっと後になってから思ったのか、
というのは忘れたけれども、
そういうふうに思ったことがある。

逆を言えば、この
「連立方程式」を知ってしまうとね、
「つるかめ算」を解こうとする場合でも
これまで通りの方法で解くのはめんどいから、
すべて、連立方程式で解きたくなってしまう。
つまり、連立方程式があまりに画期的すぎて
連立方程式を知る以前にはもう戻れない。

こういうようなことって、
このことだけに限らず、
いろいろ場合で言えるとも思う。
つまり、なにかを知ることで
それを知る以前には戻れなくなる。

たとえば、スマホを一度持ったら
スマホがあまりにも便利すぎるため、
スマホをずっと使い続けたくなる、とか、
車を運転するようになったら、
車が無い生活は想像できない、とか。
もちろん、このことは
ぼく自身の個人的な考えなので、
全員がそうなのだとは考えていないけれど、
ぼくとしてはそのように思ってしまう。
これらのことは、でも、そういう
道具的なことだけに限らず、
知識だってもそうなのだと思う。

「わかる」とは、
「かわる」ことである、
というふうにも言われているけれども。
つまり、なにかをわかると
その人が変化する。それはいわば、
知ることも、同様やもしらないか。

知ることにおいてむつかしいのは、
フェイクニュース的な、いわゆる
間違った情報及び知識を真実なのだと信じて、
そのように行動してしまう、かつ、その人が
そのように変化してしまうことだと思うけれども。
ぼくだっても、そういう情報を見聞きしたことで
変化してしまったことも多分にあるんだろうなあ。

なにかを知ってしまうと、
じぶん自身の知らないあいだに
じぶん自身が変化してしまっている。
そのことも、また、
こわいと言えば、こわいとも思える。

もう、あのころには戻れない、
ということこそが、
勉強であり、なおかつ、
成長であると言えるやもしらないか。

令和6年3月30日