![いまの社会と言葉](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/8351322/rectangle_large_type_2_8de059689fc9701af43680e61644cabe.jpg?width=800)
講演『いまの社会と言葉』(後編)
[前回noteからのつづきです。吉本隆明さんの講演『いまの社会と言葉』を聴いて思ったこと、こんかいは後編です!]
そして、講演も後半になりまして。
以前ぼくが聴きました吉本さんの講演『現在をどう生きるか』と、内容がすこし関係あるかもなあ? っておもった箇所がございまして。
それは、チャプターで申しあげますと【チャプター10/「欠如」をもとにする倫理感の終焉】での、、
あの、人間の道徳とか、あの、倫理とか。あるいは、その、善悪の判断とか、っていうのは、どこで、どういうところで昔から、人類の歴史から言って、あの。決めてきたか、って言いますと、ふたつあるんですよ要素は。【吉本隆明さん講演A132『いまの社会と言葉』チャプター10、0:00〜』】
‥‥というばめんです。
つまり、人間の「道徳」や「倫理」や「善悪」の判断を人類はどこで決めてきたか? ってゆうのは、講演『現在をどう生きるか』で吉本さんおっしゃっていた「善悪の判断」のことや「価値の浮遊性」のことと関連していそうだなあ。と思いながら聴いていたですが。
まず、このひとつめは、「欠乏」や「欠如」とのことで。つまりは、人の「欠乏」を補ってやろう、とか、「欠如」を補わなければならない、という考えから倫理感や道徳観を生み出している。
ふたつめは、吉本さんいわく「段階」というものであって。これはたとえば「ここに身障者で働けない人がいた。こちらには五体健全の人がいた。」というようなこういうばあい、こちらの五体健全の人のほうが、「段階」的に、給料を多くもらえた。そういう「段階」のちがいより、人類は倫理や道徳や善悪の判断を形成してきた。
と、吉本さんはおっしゃっていて。
この「欠如」や「欠乏」のこと、また「段階」のことは、ぼくはまだよくわかっていないので。もうすこし、じぶんのなかで考えてみたいなあ。。。
そして。
講演終盤での「言葉というのはどういう変わりかたをしてゆくか?」というばめんは、なるほどぉ、って感じました。
要約をいたしてみますと、たとえば「ある日」と「翌日」と「翌々日」とをくらべてみれば、なんにも変わってないように見えるけれども。それを、数か月、数年、数十年、数百年、と見てゆけば、いつのまにか変化している。
「言葉」も、そういう変化をするもののうちのひとつである。
という。
こういうのってば、もう、どんなことでも言えるような気がするし。それはたとえば「じぶん自身」の変化、みたいなのも、こういう長い長いスパンで見ないと見られないともおもえるし。
そういう「変化」のことを思いました。。。。。
ってゆうわけでぇ、こんかいは吉本隆明さんの講演『いまの社会と言葉』を聴いて思ったことを申しあげました。
まだまだ吉本さんの講演はさ、すこしずつ聴いているのもあれば、これから聴きたいのもいろいろあるし。また、せんじつ10月28日のほぼ日「今日のダーリン」で糸井重里さんが紹介なさっていた『最後の親鸞以後』という講演も、おいおいになってしまうとはおもうけれど、聴きたい!!
書けそうなときがあればまたいつか吉本さんのべつの講演のこと、書きます〜。
平成30年10月31日
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