第9回 善悪、倫理、道徳
[前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(1995年9月3日・山梨県立文学館講堂にて)をゆっくりじっくり聴いてゆきます。ほんじつは、第9回めです。]
前回では、「もっと違うことを言ってみますと、自分、つまり自我というものは、自分の本体と浮遊して、いくらでも、いつでも、違うものになれちゃう。自分がどこどこの生まれで、こうして育った、というのと関わりなく、自分ってのは設定されてしまう。」のところでした。
つづきを聴きます。。。
それから、あの、もっと…。もう少し、またその問題を詰めてしまいますと、あの。人間的な、人間のその、善悪、あるいは倫理、道徳っていうものは、あの、その時代、今なら今ですけど。現在ですけど。
(チャプター02「疑わしくなった善悪の基準」/0:00〜)
「それから、もうすこしその問題を詰めていきますと、人間の善悪、あるいは倫理、道徳というものは、その時代、今なら今、現在ですけれど。」
現在の市民社会の大体、常識っていうのは大多数の人の考え方で。あの、善と…。これは善いことだと思われているものは、善いことだっていうふうになっていますし。
「現在の市民社会の大体、常識とは、大多数の人の考えかたで。これは善いことだと思われているものは、善いことだ。となっていますし。」
また、悪いことだと思…、思われるものは、悪いことだ、というふうになって。少しも疑われない、っていうふうになってたんですけど。
「また、悪いことだと思われるものは悪いことだ。と、すこしも疑われない、というふうになっていたんですけど。」
あの、みなさんご承知のように、これはちょっと疑わしい、って言いますか。それを疑うような現象っていうのは、あの、疑うような現象ってのは、ほうぼうで現れたりしますし。
「みなさんご承知のように、これらを疑うような現象はほうぼうで現れたりしていますし。」
‥‥という、つまり、「善悪や倫理や道徳が疑わしい」という現象がほうぼうで現れてきた。というおはなしは、じぶんとしてはとってもきょうみぶかいです。
このつづきは次回noteで聴きましょう〜。
平成30年7月21日