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「読む人」側の人は読書も好む。

ぼくは本を読むのが好きなのだけれども、
本を読むとは、どういうことなんだろう?
って思ったりもする。

たとえば、本を読むことに関して
「本を読んでもほんとうに大事なことは学べない、
だから本は読まず人と会いなさい。」
という言説もね、たびたび
目にしたり耳にしたりもするですが、
そうとは言われても、でも、ぼくとしては
「学ぶ」ためだけに本を読んでいるわけじゃあない、
とも思ってしまうの。つまりはさ、
面白いから読む、とか、
楽しいから読む、とか、
淋しいから読む、とか、
動機はただただそれだけで、
読みたいから読むだけなのだから。
そして、そのような読書によって
心が救われた、って感じられる場面もあって。
もちろん、読書によって、
物事を知ることができたり、知識が増えたり、
ということも起こりうるんだしても、
それが、いちばんじゃあない、と申しますか。
教科書や参考書を読んでいるわけでもないので、
そういうんじゃあない書物を読むことは、
学びとは真逆のものなのだとぼくは考える。

そしてまた、
でも、本を読むって、どことなく
権威的な面もあるようにも思われる。
つまり、たとえば
本を読むことが偉いと言わんばかりに、
本を読んでいない人に対して、
本を読め! と叫んだり、もしくは
本を読まない人のことをばかにしたり、
そういう場面もあるのではないかと想像するけど。
なんだか、それはつまり、
本を読まない人は、本を読む人に対して
本を読んでも学べないから読むな!
と言い、また、逆に
本を読む人は、本を読まない人に対して
本を読んだほうが良いから読め! 
と言うんだともすれば、
「本を読む人」と「本を読まない人」とのあいだの
戦争のようで、こわい、とも思えてしまう。

経営学者のP.F.ドラッカーさんが、
組織内で上司が報告を受ける場合において
【人には、「読む人」と「聞く人」がいる。】
と言われているけれども。
(『ドラッカー名著集1 経営者の条件』129頁より。)
人が本を読むのかどうか、というのも、
つまり、ドラッカーの言われるような、
「読む人」側の人は読書も好み、
「聞く人」側の人は読書を好まない、という
その人の性質的な面より来ているやもしらない。

今では読書をするぼくも、でも、
子どものころはほとんど本を読まなかった。
そんなぼくが本を読むようになったのは、
20代半ばごろ、あまりにもだめなぼくのことを
見かねた恩師の先生より、
君は本を読みなさい、と言われたことで
読書をするようになった。
そして、ぼくは読書によって
救われた部分もたくさんあると思っている。

ぼくは、おそらく、
ドラッカーのおっしゃる
「読む人」の側だったのかもしれないな。

本を読まない人に対して、闇雲に
本を読め! と言ってもどうしようもないけど。
でも、たとえば、かつてのぼくのような
これまで本を読んでこなかったけれども、
ほんとうは本を読むべきだった人、つまり
ドラッカーの言われる「読む人」が、
本を読むようになり、そしてまた、
ぼくのように、読書に救われる、
というふうになれたらよいのに、と想う。

とは言いつつ、それでも
本を読むことによって、その内容に
影響を受けて感化されたり、
ある考え方に帰依したり、及び
ある思想からある思想へと転向したり、
という側面もあると思えるから、
それはそれで、こわい、とも感じられる。
でも、そのことは読書だけにあらず、
他人と対話することによっても、
起こりうるやもしらないけれど。

ぼくだってもね、本を読んだことによる
感化や帰依及び転向を経て、
ここまで来てしまったんだろう。
それは、いわば、
良いことだけじゃあなくて、と言うよりも
悪いことのほうが多いのだとしても、
ぼくは、ぼくなりに
本を読んでゆきたいんだなあ〜。

令和6年3月31日