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『新婚さんいらっしゃい』の夫婦みたいな / 芸術未満 27

 大学はショッピングモールのようだった。下田も勿論、学生たちは学徒などというよりも消費者で、そこではどうやらステータスや権威や箔のようなものが売られているようだった。反吐が出るほど学校が嫌いで授業は聞かず、勉強は仕方なしに家でひたすら独学の下田はなぜまたこのような大学という場所にいるのだろうか。

 これまでと全く同じで大学の授業も意味がないのではないかと思った。教授たちの話はそれほど素晴らしいのだろうか。ある時、大教室で老講師が明らかに勘違いした内容を話していた。講師は終始嬉しそうな顔をしている。授業を遮って誤りを指摘した方が良いだろうか。そのような目立つような真似は大教室ではやはりできなかった。疑問が否応なしに増した。自分はなぜこんなところにいるのだろうか。学校の教室では常に思い続けていた。なぜこんな意味のないことを聞き続け、同じ方向を向いて座り続けねばならないのか。下田は勉強は本があれば一人で出来るのではないかと驕慢にも思っていた。意味のない授業を長時間聞き続けるのは拷問であった。学校での合同勉学が合う者もいるのであろうが、下田は不適合であった。それならばなぜ自分は学校を辞めないのか。「あそびげい」よろしく美と芸術などという大それた事柄を考え続けることができるからだろうか。学校を辞めたとしても更にハードで酷薄非情な「社会」という場できつい拷問が続くだろうことは容易に想像がついた。教室の授業に意味がなくても、今後の人間社会でかような習慣は何らかの訓練になるのだろうか。

 大学では嫌なら単位を取らなければ良く、授業出席への強制力は弱そうで、その点はまだマシであった。気軽な美術部「礫」で友人も出来始めており、周りには女子学生も大勢いた。それこそ下田が大学という学術ショッピングモールにいる理由かも知れなかった。幼少期からの強迫的疑問である「人間」について考え続けることは出来そうだった。

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 「礫」の2回生に仲が良いカップルがいた。彼ら二人は小柄で、どちらもおっとりとした印象だった。緑山という女子学生と御子柴という男子学生の二人だった。下田も恋人という存在に憧れ続けていた。既に十八歳だったが一糸纏わぬ女性の姿はテレビ映像か雑誌写真でしかまだ見たことがなかった。

 緑山と御子柴はサークル室にいるときはパイプ椅子に二人必ず寄り添って座っていた。サークル室には誰でも自由に記入可の落書き兼連絡ノートが置かれていた。

 ある時下田は、そこに緑山女史の字で「昨日御子柴くんの髪を切りました」と、かわいらしいイラストと共に書いてあるのを見た。サークル室では御子柴2回生は下級生とほとんど喋らなかった。仲睦まじいとされている彼ら二人が何だか『新婚さんいらっしゃい』の夫婦みたいだと、時に下田は思ってしまうことがあった。緑山女史はふくよかで愛想のよい古代和風女性であった。優しそうな彼女はゆっくりと喋り、顔を赤らめてよく笑う人の好い関西美人であった。隣の御子柴は彼女に比べ口数少なく、むっつりしていることもあった。しかしそれでも、彼ら学内公認の恋人同士である二人は常に一緒にいるように見えた。


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