ばれませんように、と他人のような顔をすることに必死だった / 芸術未満 12

 下田の父親は気弱な人物で、家(と妻)から逃げ続けていた。下田は友人の家に遊びに行った際など、「ただいま」「おかえり」などの挨拶や「行ってらっしゃい」などの声を友人が自然に家族と掛け合っているのを見て、(「これが普通だよな」という思いの中)やはり羨ましかった。
 たっかん(高田という名)、もっしゃん(茂志田)、山野(ヤンマーというあだ名)の4人で小学5年の頃、釣りに行ったことがある。
 ヨットハーバー近くのいつもの埠頭で朝からサビキ釣りをした。煉瓦のような形の凍った練り餌を削って、仕掛け(のカゴ)に指でぎっしり詰める。日曜の空は晴天で波は静かだった。
 釣り人もまばらで下田ら小学生は埠頭を走り周り、小アジを何匹も釣った。
 小柄なヤンマーは小学生だが髪を(親に)金色に染められていた。たっかんとヤンマーは同じ高層団地に住んでいた。
 メガネを掛け白髪まじりで毎日茶色い服の徳山という担任教師は、山野や高田らを目の敵している節があった。
 ある時、女性の裸が描かれたマンガが教室で見つかったことがあった。それは徳弘正也の『シェイプアップ乱』であったが女教師は大騒ぎした。下田もマンガを見ていた一人だったので徳山に呼び出され「こんなん読んどったら、お母さん泣きよるで」と(呆れ顔で)言われた。一方、山野は呼び出しに応じず、教室の床で(子猿のように)ブレイクダンスをしていた。当時、山野は学校で唯一、セーラーズのブルゾン(ピンク色)を着て学校に通っていた。下田は同じ水兵の絵が描かれた服を欲しいと思っていた。ヤンマーは勉強もせず成績も悪かったが全く気にしていないようだった。
 山野は色白でそばかすがあり、赤や黄色など原色の服をよく着ていた。溌溂とした悪ガキである彼を見ていると(「エマニュエル坊や」に似ている)と下田は思うことがあった。
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 空には雲もなく、海に反射する陽射しの中、4人は(理由なく時々笑い合いながら)無心で釣りをしていた。
 防波堤の向こう、街路樹の方から大人が一人近づいてくる。ビニール袋を両手に提げ、歩いてくる人物は(まさかとは思うが)下田の父親であった。
 挨拶もなく会話もない(長く沈黙の支配する)家だったので、下田は父親と話せなくなっていた。自分の親を友人らに見られるのも耐えがたく、恥ずかしかった。(頼んでもいないのに)父親が笑顔でこちらに近づいてくる。
 下田は目を逸らした。
「何釣っとるんや」と子供らのすぐ傍に来た父は聞いた。
 小学生らは一瞬黙ったが、
「アジや」とヤンマーが答えた。
 下田は目を逸らし続け、親だと気付かれないように無言で素知らぬ振りを続けた。
 父親は子供らのバケツを覗き込み、
「ほんまや、ようけ釣れとる」と言った。
 ばれないように、ばれませんようにと下田は思っていた。名前を呼ばれたらどうしよう、父親が子供の様子を見にくるなんてみんなに知られたらどうしようと、下田は他人のような顔をすることに必死だった。
「おっちゃん、こんなとこで何しとん」と山野が言った。(釣り人風でない格好を変だと思ったのだろう。それは確かにそうだ)
 暫く間があり(どう言うか考えたのだろう)、
「おっちゃんか? おっちゃんはヒマやから、見物や」と父は言った。
「そうなんか。(とビニール袋を指し)何か持っとんな、おっちゃん。それ、なんや? 菓子か? 何でそんなん持っとん?」とヤンマーが続ける。
 下田は「おっちゃん」と呼ばれる父をちらと見た。(虚を突かれたような、ごまかすような)笑いを浮かべ、眩しそうな顔をしている。
「これ、えびせんや。さっき買うたんや。良かったら食べ。皆にあげるわ」と聞こえる。
 下田は今更「自分の父親だ」とは言い出せなかった。たっかんともっしゃんは、様子のおかしさを少し感じ取ったのかもしれない。「おっちゃん」とヤンマーのやりとりを見て笑いながらも彼らは喋らなかった。
 ヤンマーは飛び跳ねながら「おっちゃん」と話をしていた。
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「んなら、おっちゃん、もう行くわ」と父は言った。
「菓子、ありがとうな」とヤンマーの声がする。
 父親は去った。ヤンマーたちは「ありがとうなあ」と(後ろ姿に)手を振っていた。下田も友人らの背後に立ち、父が行くのを黙って見ていた。
 姿が小さくなると、
「何やったんや、あのおっちゃん」と(かっぱえびせんを食べながら)ヤンマーは思い出したように呟いた。
「で、でも、ええおっちゃんやったな」とたっかんが言った。
 もっしゃんが自分の顔を覗き込んでいるような気がする。
 下田は引きつった顔をしていた。
 父の持ってきた見慣れないスナック菓子を下田も口に入れた。(おいしいのかどうか分からなかった)
 青空の下でゆったりとした海の飛沫が防波堤に飛んでいく。
 もっしゃんが何か言いたそうにこちらを見ていた。(だが何も言わなかった)
 子供たちは暫くして「おっちゃん」のことなど忘れ、魚釣りを続けた。墨色の海に浮かんでは消える黄色い(蛍光色の)浮きを下田は見ていた。
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