苦笑いする教師は教え子の背に手を回し「家は裕福か?」と訊いた / 芸術未満 4
子供の頃から下田は紙さえあれば落書きばかりしていた。高校ではテニス部のマラソン練習についていけず美術部に入った。美大に行こうか(迷っている)と顧問でもある美術教師に相談した際、「技術はともかく…、下田はこれまでの生徒で一番……」と言いかけ、教師は慌てたように目を逸らし言葉を濁した。
彼は何と言うつもりだったのだろう(恐らく、うん、あの言葉だろうと下田はすこし考えて察しがついた)。失言したと思ったのか、苦笑いする教師は教え子の背に手を回し「家は裕福か?」と訊いた。
下田は何と答えてよいか分からず(ユウフクというのはどれくらいの額をいうのだろう…)曖昧な表情をした。
「美大を目指すなら予備校に通わなきゃならんぞ」「鎌倉に良い予備校がある」と教師は下田にその学校名を伝えた。
そうか、お金が必要なのか。教師の不安げな表情からするとかなり莫大な金額なような気がする。
下田の家で両親は長い間、一言も口をきかない状態だった。両親はお互いを「既に死んだ」ものとして暮らしているようだった。家は形だけ、体裁だけとして存在していた。無言の家で「将来の話」などできるだろうか。家にいると息が詰まり、自殺のことも考えてしまいそうな有様だったので、下田は結局何も言えなかった。
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家庭が不幸だと子供は物を考えるようになるのかもしれない。「良いことと悪いことの区別なんて、もう分かっとるやんな」と小学生の時に教師に叱られた際、下田は何が「良い」ことで何が「悪い」のか簡単には言えないのではと思った。戦争は良いのだろうか、悪いのだろうか。大逆事件や盧溝橋事件は良いのだろうか、悪いのだろうか。一体、何が善で何が悪などと一概に決めつけることができるのだろうか。
見下した態度で教師は生徒らをバカにし続けている。そのような態度は教師として「良い」のか悪いのか。
また「絶対」という言葉も下田には引っかかった。「絶対そんなことしたらあかん」という時の「絶対」。誰が見ても「絶対」正しいということはあるのだろうかと、下田は死につつある家で一人で考えた。この世に「絶対」ってのは一体あるんだろうか…。もしそれがなければ物を測る「基準」って一体何なのだろうか。
自分が見ている赤色は果たして他人も同じ色を見ているのだろうか。下田はそのようなことを考えながらふとテレビを見るとクイズ番組のエンディングでタレントやアナウンサーが作り笑顔で手を振っている。
まるで自分が見知らぬ惑星にいるような、外人になったような気持ちでテレビ画面を見た。一体これは何なんだろうか。なぜ、こんなことを大人たちはやっているのだろう。何か意味があるのか。紙吹雪が舞い、嬉々とした女性アイドルが涙を浮かべて商品目録を手にしている。一つの字をずっと見続けていると、字の意味が取れなくなってくることがある、あの感じだった。ぼんやりと呆気にとられ画面から視線が動かせなかった。しかし「これはテレビ放送の、クイズ番組、なのかもしれない」と強いて意識し続けると、画面内の人物が今まで何度も見たことがある男性(愛川欽也)だと分かった。親がいてもお互いに無視し合っているような家で暮らす子供は、神経が少しおかしくなるのかもしれない。
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部屋にいると自分が極端に縮小してしまったような奇妙な感覚に陥ることがあった。部屋はいつもの部屋なのだが自分が豆つぶのように小さくなった分、周囲が覆うように巨大に感じられる。
「以前一度あったことをもう一度見ている」既視感も奇妙だが「周囲が巨大になり自分が縮小する」感覚も既視感以上に奇妙だった。それが訪れた時は(早くこの感覚が去ってくれ)と近くのテレビや自分の手などを改めて見詰めるが、遠近法が崩れたように部屋も自分の手も極端に遠く感じられる。
いつまでこの感覚が続くのか不安になってくる頃、数分後に次第に遠近感は元に戻った。デジャブには不思議な幸福感のような(何かが元に戻ったような、大事な欠片を一瞬掴んだような)ものがあるが、自分が縮小し距離感が狂う感覚には幸福感はなく、抑えつける焦燥しかない。一体これは何なのだろう。同じような感覚になったことがあるか誰かに尋ねようとしたこともあるが、上手く伝えるのが難しい。(自分が極端に小さくなって、周囲の物が自分から遠く離れて、手を伸ばそうとしても届かなくなるような感覚って、今までなったことある?)正気を疑われてしまうような怖さもあり、下田は話そうとしてもやはり「いや、なんでもない」と途中で誤魔化した。
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