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十月書房の神秘学本 / 芸術未満 26

 ある時、下田はいつものようにパイプ葉の匂いを感じながら茫漠たる気分で神秘学や美術書の前にいた。より大型の、より高額な本は、店主翁が番台のように座る席の斜め後ろ、買いもしない客が手を伸ばしにくい暗がりに重厚そうに並べられていた。

 竜王文庫のブラヴァツキー本か、エメラルドグリーン色の『ベルゼバブの孫への話』だろうか、値段的にも距離的にも手の届かない大著を下田が物欲しそうに眺めているのに気付いたのか、マホガニーの光沢パイプをくわえた店主が下田に本を取ってくれた。

 穴ぐら一人暮らしでの淋しさに耐えられず、しかし会う友人もまだ少なく、家族も恋人もおらず、特別な行き場所があるわけでもなく、下田は光に集まる虫のように十月書房に行った。『神秘学概論』や『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』、『死後の生活』といった地獄絵を思わせる横尾忠則装丁のイザラ書房シュタイナー函入本がシリーズで棚の一角に少し埃っぽく置かれていた。

 悠然としたパイプの老店主は人智学徒なのだろうか。本棚には他で見たこともない人智学関連の本が多いのだ。しかし何故かそんなことはないような気もする。乱歩似の店主は和洋折衷の畳部屋で真夜中に推理小説か幻想怪奇譚でもしたためていそうだ。高橋巌の講演録のような冊子も売られている。棚から取ってくれた神秘学の大著を下田は乱歩店主に返した。高度な内容そうだった。見せてくれてありがとうございますと小声で礼を言った。

 下田はクリシュナムルティの本を買ったが、一体どうすれば良いのか分からない。何も考えなければ良いのか。リードビーダーはクリシュナムルティ少年の美しい何を見たのか。シュタイナーはクリシュナ少年と会ったことがあるのだろうか。そういえばシュタイナーは少年の頃、遠方の叔母が他界する直前に彼女の幻を見たという。叔母は「一度見たら二度と忘れられない仕草」をシュタイナー少年に向かってしたらしい。一体それはどんな仕草なのだろうか。しばらく考え、真剣に想像してみたが下田にはお笑い芸人などのギャグポーズのようなものしかどうにも思い浮かばなかった。

 本を買っただけではいつまでも何も解決せず何も分からないままなのだろうか。

 夜まで河原町や三条通りをほっつき歩き、寒くなってきたので仕方なく田園の宇治小倉に戻った。駅近くには支所なのか任天堂の大きな施設があった。横井軍平や宮本茂はあの施設にいるのだろうか。ナムコの傑作ゲーム『パックランド』に宮本茂は感謝しているのだろうか。『パックランド』は鮮やかな黄色が美しく、立体的で楽しいゲームだった。感謝したピンクやライム色の妖精たちがキラキラとボーナスポイントをくれるのが子供心に嬉しかった。パックマンがUターンして来た道を自在に飛び跳ねながら引き返すのも斬新だった。

 既に夜遅く、駅前にある西友の餃子屋はもう閉まっていた。下田は蛙の鳴く細道を歩いて帰った。戻った部屋は薄ら寒く真っ暗だった。カーテンから電柱の灯りが部屋に微かに洩れていた。




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