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自意識についての過剰な意識 / 芸術未満 29

 宇治小倉の洞窟のような部屋に一人でいると、就寝前など下田は掴みどころのない茫漠たる不安からか、考える必要のないことまで次々と頭に浮かんだ。

 ある時「自意識」とは一体何なのか、考え出してしまった。どこかで「自意識過剰の苦しみ」だとか一節を目にしたからかも知れない。美術部「礫」の壁にカラフルな文字で真木先輩が落書きしていたのかも知れない。

 改めて就寝前に考えると下田はその意味するところがはっきりとはよく分からなかった。自分が「青色」として見ている色は他人と完全に一致するのだろうか。色の範囲はきっと人によって多少異なるのだろう。「自意識」とはどういった意識の、どのような種類の範囲を指す言葉なのだろう。

 自意識について、それが(意識と呼ばれるものの中でも)特別なものらしいと気になりだしたのはいつ頃だったか。目に映る外界の見え方は幼い頃からずっと変わっていない気もする。辞書には自意識とは「自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識」とある。「周囲から区別された自分についての意識」ということなら、昔からあったような気がする。記憶とは自我、「私」のことだとシュタイナーの本で見た。

 自意識が過剰、とは、つまり自分を意識してしまって、どうにも周囲に上手く溶け込めない、あのことであろうか。では、自意識が不足していれば、自分自身を意識することなく、自然と周りに溶け込めるということになるのだろうか。

 「自意識」という意識の感覚が下田はどうにも実感としていまいち掴めなかったが、何かで以下のような説明を読んだ。曰く、「図書館の一室で一人きりで本を読んでいる時の、自分の意識状態。その部屋に騒々しく誰かがやって来る。今まで本に集中できていたが、他人が来たことで、意識状態は先程の、一人だった時とは異なっている。つまり、今は他人がいることで、自分自身を意識している。」この変化した意識が自意識である、とその文章は説明していた。

 なるほど、そういうことなら下田も覚えがある。例えば映画館などで、下田は後ろの人々(前席の私に腹立っているのではないか?)が気になることがあった。これも「自意識」の故ということだろうか。自意識のせいでこのような、体も動かせぬ緊張を強いられて映画を鑑賞せねばならない。

 「他人に迷惑を掛けるな」という、下田の大嫌いな言葉は、ありきたりな定説として金科玉条の如く教育現場や日常生活で世の教師や親らが子供たちに向かってやかましく口にしていた。しかし一体どこまでが「他人に迷惑」なのか、誰がどうやって判断するのであろうか。例えば映画館で、自分は後ろの人物に迷惑を掛けてはいないか? 座高の高い下田は恐らく大いに迷惑である可能性がある。

 「他人に迷惑を掛けるな」というのは不可能ではなかろうか。生きていればどこかで必ず何かを奪っているし、罪深く、自らが気付いてもいない迷惑か害悪を周囲に撒き散らしているかもしれない。世間一般の「他人に迷惑を掛けないように」とはつまり、縮こまり、周囲に気を遣い、遠慮し、忖度し、自粛し続け、出る杭にならぬよう、目立たないよう、もし誰かが目立つなら、皆で団結し、皆の苦労を分からせるべく懲らしめよう(そうならぬよう心得よ)、という警告なのかもしれない。

 自意識がもし無ければ、自己を意識することが無い、ということになる。例えば、服もろくに着ずに戸外で遊びまわる子供。自分自身を意識していないので(自意識が少ないので)半裸でも自由奔放に振る舞えるということなのだろう。

 自意識とは、自分自身、つまり「私」という意識のようであった。
もし「私」が無くなれば、そのとき、きっと苦痛も無くなるのではなかろうか。アルコールやドラッグなどの快楽物質はこの苦痛の源泉たる「私」がもたらす激痛(耐え難い悔恨や罪意識や恐怖や不安)から意識を少しでも解放してくれる「自意識減少・『私』解放薬」(鎮痛剤)といった面もあるのではないか。

 「私」意識のあるところすべからく苦痛がある。「私」が「みんな」と違うならば、それは罪悪なのだろうか。「みんなと一緒」で「ふつう」が正義で善なのだろうか。自意識は「私」に苦痛をもたらす物のようであった。

 自意識が少なければ「私」が曖昧になり「みんな」の中に消えてしまう。「みんな言ってるから」「みんなやってるから」という言説は先祖代々日本に伝わる伝統的納得術らしかった。

「私」を殺すならきっと「みんな」と一緒になれるだろう。それは「私」が消え、古来からの「『私』を認めぬ集合生命体」自称するところの「運命共同体」とやらに呑み込まれ続けることだ。

「みんな」と仲良く、上手くやり、「私」も器用に使いこなす、というのがきっと要領良い「大人」の理想的なやり方なのだろう。

「私」が苦痛であるならばひと思いに意識そのものを消せばよいのだろうか。

 だが意識を消す目論見の「自死」は意識の終焉ではない可能性がある。(下田は手塚治虫や、つのだじろうの漫画で知った。)死後も(肉体が消失した後も)意識は形態を変えて生き続ける可能性もある。

 フランスの哲学者が言う「小さい死」とやらはどうだろうか。肉体牢獄内に幽閉された「私」意識、自意識が男女の性的な結合で、個人を超え、どろどろに忘我溶解するというあれだ。下田は聞き齧った豆知識のような頭で考える。

 しかし「私」意識が融解するというのならば、振り付けポーズを全員で一致させるスポーツの応援団や、活気あるお祭り会場、賑わう居酒屋などでもフランス人の言う「小さい死」どころか「たくさんの死」を日本では日常的に見ることができるのではないか。「私」が溶解し、個人が消えて、集団的意識になるというのであれば、まさしくそうであろう。

 しかし、だがそうは言っても自意識の過剰は非常に苦痛なので、このような祝祭は大いに行うべきであり、集合意識と自意識のバランスが問題なのだ、とも思う。

 下田はフランス哲学でもインド密教でもこの際、最早どちらでも良かった。自意識を減ずる忘我(歓迎)、聖なる高みを性愛実技で目指す聖俗一致の豪快タントラ(大歓迎)、どちらにしろ未知世界への神秘探究を厭わぬ、前衛的かつ協力的な恋人がどうしても必要だった。

 神秘探索はなるべく早急に行いたい。恋人のために「私」を殺す必要はあるだろうか。性の饗宴には何が必要なのか。快楽の為に女性の下僕となる覚悟は十分にあった。神秘云々と言っても、所詮はつまるところ浅ましく、さもしい獣欲と変わらないのかもしれない。

 衝動的な欲望が地鳴りのように、電子音楽の持続低音めいて下田の体中に響き続けていた。




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