取るに足らぬような罪が確実に増えていく気がした / 芸術未満 8
田尻キャンパスには基本的に1、2回生しかいなかったので、各サークルには2回生の(田尻側での)部長がいた。
「ジーザス会」には下田は数回見学に行っただけで足が遠のいていた。
ジーザス会の2回生部長は美学及芸術学専攻の黒川という女子学生だった。
黒川は同じ学部ということで下田に親近感を持ったのか、細々と気を遣ってくれた。彼女はウィリアム・モリスの研究をしているらしかった。何が好きなのかと聞かれ、どう答えるべきか迷った挙句、下田は「ドラゴンクエストが好きです」と言ってしまった。
冗談だと思ったのか、黒川はにっこりとした。「堀井雄二って人のシナリオが好きで…」「昔あった『ポートピア連続殺人事件』ってゲーム、知ってます?」
はしゃぐ弟を見るような目で黒川は下田を見た。ふくよかで静かな黒川はキャンパスでは目立たないが、聖母のように深い信心を湛えた雰囲気があった。
ある会合で下田は田尻校舎のキリスト教センター(の一部屋)に招待されたことがあった。「ジーザス会」には数人しかいないので(イベントサークルの数百人規模に比べたら風前の灯火)、その日も部屋がやけに広く感じた。
お酒ではなく、ジュースとお菓子が出た。集まるのも夕方~夜ではなく、日中であった。
黒川以外にも2回生の女子学生が来ていた。白いカーディガンを着た黒髪の彼女は誰が見ても美人であり、大人しそうな女性であった。
引っ越したばかりで知り合いもいず、下田は誰にも遮られることなく、暗い自室で3巻組のロシア小説などを読んでいた。神やら芸術やらで十九世紀のロシア人たちは苦悩しつつ走り回り、大騒ぎしているようだった。
クリスチャンセンターの一室で、下田は隣にいる美しい(堅い信心で俗世から隔てられているような)上級生に、ドストエフスキー風の疑問をぶつけた。
「神は信じていれば誰でも救ってくれるんですか」
「例えば、食べるものが全くなくなってしまったとして、そこに子どもたちもいるとしましょう。自分の子もいれば、他の子たちもいる。
そういうとき、神はどうするんですか。救ってくれるんでしょうか」
美人の上級生は下田の無遠慮な問い詰めに少しひるんだが、
「神を信じていれば大丈夫…、何かが起きるはずです」と小声で言った。
下田は問い詰めたことを後悔した。少人数の優しい会員たちの平和な集いで自分は何を(困らせるようなこと)しているのだろうか。下田は謝るべきと思ったが、素直に言葉が出ず「へえ、そうなんですか」と言っただけだった。
美しい女性は困惑したような悔しそうな顔をしている。自分はここにいるべきでない、と下田は思う。
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黒川に誘われ、その後も何度か彼女とは会った。「今、美術部にも行ってみてるんです」と下田は現状を伝えた。
「美術サークルの方が、合ってる?」と黒川は少し淋しそうな顔で言った。
優しくされるとつけあがる下田は「はい、そうですね、やっぱり」と(彼女の痛みを意識して尚)無思慮に答えた。
下田は「ジーザス会」にもう行くことはないだろう。
黒川からは何度か手紙が来た。しかし下田はそれを開封することができず、放ったらかしにした。黒川の丁寧な筆跡(宛名)を目にする度、下田は苦しかった。
黒川は「下田に信心を強要する」ようなことは無い。たまに会って好きな絵の話でもすれば良いのだ。
しかし一度離れると、会うのが気まずくなってしまい、下田は手紙を無視し続けるだけだった。
取るに足らぬような(しかし確かな)罪が確実に増えていく。
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「あそびげい」の授業が終わり、下田が学食に行こうとした際、一人の女子学生が近付いてきて「アートクラブ・VEGA」のことを聞いてきた。下田は、自分は詳しくなくあまり興味もないと言った。
彼女によると「今日サークルで飲み会があるようだから一緒に行かないか」ということだった。夕方からサークル室で開催するらしい。下田は「ベガ」には興味がなかったが、声を掛けてきた女子学生が原田知世に少し似ていたので、ついていくことにした。
下田は「礫」で森の話を聞いてから何度か(開けっ放しの)「礫」部屋に行っていた。そこには滝本に誘われたらしい美芸の学生が(呆気にとられた顔で)常に何人かいた。
「滝本君、って人から『サークル室に来て!』って言われて来たんだけど、滝本君もいないし、今日、一体何があるの?」
既に滝本も「礫」に入り、脈がありそうな女子学生を中心に、(1回生ながら)積極的に声を掛け続けているようだった。
下田は「礫」ではまだ会っていなかったが、美芸の滝本や、2回生の森という学生が気になっていた。もっと色々、話してみたいと思わせるものが彼らにはあった。
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「ベガ」のサークル室での飲み会は下田の印象に全く残らなかった。彼に声を掛けた原田知世(に少し似た学生)は遠野という名だった。
彼女は愛想良く「ベガ」の諸先輩らの話を聞いているようだった。森の話で聞いた通り、酔った女子学生が2人、和楽器を出してきて大声を出しながら演奏し始めた。(吉幾三の演歌を雅楽風にアレンジしているのだろうか?)その一人は日本人形のように丸々として、切れ長の目をした女性だったので、和楽器を持つ姿は、まるで(やや柄の悪い)ひな人形のようだった。
下田はあからさまに詰まらなそうな顔をしていたのかもしれない。遠野は「もうそろそろ帰らへん?」と下田に言った。
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学校のある田尻山腹から駅までは坂道が延々と続いている。外は既に夜で、真っ暗だった。遠野は大阪の女子高出身で、実家の兵庫県西宮市から、京都まで遠路はるばる通学しているとのことだった。
遠野は近眼なのだろうか、夜道を歩いていると彼女の体がいつのまにか近付いてきており、下田は上気してしまいそうになった。
下田はあまり話すこともなかったが、
「ベガに行くことはもう、ないかな」と言った。
遠野は頷き、「そうやね」と笑顔で言った。
利用する駅が異なったので陸橋で別れた。彼女はバンドもやっており、キーボード奏者とのことだった。
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