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付き合っている先輩たち / 芸術未満 28

「大学でも下宿でもいつも一緒なのか。『付き合う』というのはひょっとすると息苦しいのかも知れない」と下田は思った。

 話し好きで人を楽しませようとする緑山の影で、御子柴は鬱屈したような、つまらなそうな顔をしていることもあった。これが「仲の良い恋人」というものなのだろうか。御子柴の方はまるで付添人か何かのように見えてしまうこともある。

「付き合う」というのはこういうものなのか。不意に御子柴が緑山の所有物かペットでもあるかように見えてくることがある。それほど彼女の(目に見えぬ)リード綱が強固なのだろうか。

 リードを離さないでください、リードをつけて散歩をしましょう、等という公園看板が目に浮かぶ。「付き合う」とはこうしてガッチリ異性に首輪を付けられ、こちらも負けじと相手の首根っこをむんずと押さえつけることなのか。まだ二十歳位なのに御子柴の暗い顔がまるでうんざりした熟年夫のようで、空恐ろしい気もする。「付き合う」とはそこまでお互いの自由を制限し合うものなのか。大学サークルで公認のようにして恋人同士「付き合う」のは色々と重苦しいのかも知れない。

 緑山女史の同性友人たちは御子柴の軽はずみな行為を見逃さず、逐一彼女に報告を怠らないのではないか。御子柴の行動はある意味、女子学生たちから監視カメラ以上に監視されている。リードは離さないように。リードは必ずつないで散歩をしましょう。学内で「おしどり夫婦やな」と周囲から認められているのも、重苦しく、できれば避けたいような気もする。

 だが男性と女性が「付き合う」とは、異性間での異種対決という抜き差しならぬ側面もあるのだろうから、仕方なくもそのような形になるのも止むを得ないことかもしれぬ。

 新婚夫婦が落語家やタレントらに面白おかしく自分たちの馴れ初めエピソード等を披露するインタビュー番組では、新妻の威勢の良さ、権力やパワー、生物としての存在感が圧倒的に新夫のそれを上回っていることが多い気がする。妻に強権を握られたテレビ内の夫らは弱々しくも見えるが、しかし何となくぼんやりと幸福そうだった。

 下田はもし自分にも恋人が出来、誰かと「付き合う」状態にでもなれば、すんなり彼ら「夫」たちと同じように自分も女性に媚びへつらう類の男になってしまいそうな気がした。

 家で恋人に髪を切ってもらうのか、と下田は思う。それは一体どんな感じなのだろう。「すこし失敗してしまいました」と続けてノートに書かれている。「御子柴くんを見てもあまり笑わないでください」と困り顔のイラストが描かれている。緑山女史は御子柴さんを本当に好きなのだなと、字面や絵の感じで分かった。

「付き合う」というのはお互いを、強度の大小はあれ、目に見えぬリードで引き合わねばならぬようだが、その代償は途轍もなく大きいと下田には思える。

 男女が一つ部屋に二人きりでいることが出来るのだ。理科の授業では確か細胞壁内で分裂した核が細胞分裂を繰り返し成長を続けていた。細胞壁ならぬ部屋の壁、その内側で生命誕生の神秘スレスレな行為に耽ることができるのだ。密室での男女は自然景観の一部となり、エコロジカルかつ宇宙叡智に貫かれるような活動を行っているのであろう。下田は未だその叡智に貫かれたことは無い。緑山と御子柴のサークル公認カップルも既に大自然や大宇宙の一部である。当然、生命の大いなる連鎖や循環をその身に感じ、その気になればウィルヘルム・ライヒの神秘的なオルゴンエネルギーについてさえ、日々、羨ましくも実証可能なのだろう。

 以前、テディベア似の大橋ケンゴはライヒ流に言うところの性エネルギー交換について「大したことない」などと言っていたが、やはりカッコつけただけなのではないか。大自然のうねり、宇宙意志のようなものが全身に満ちるのだろう、きっと。しかし御子柴はなぜ、愛の源泉であろうはずの恋人がいつも隣にいるのに常につまらなそうな顔をしているのか。大宇宙というマクロコスモスで小宇宙たる人体が、増殖前の染色体のように融解する愛の営為は、ちっぽけなミクロマンには味わい尽くせぬものなのか。

 イーノのアルバム『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ(射精の一瞬)』では最終曲に向かう怒涛の進行の中、凄まじい興奮に溢れた絶頂が訪れ、緩やかに波が引くような所謂アンビエント式快楽を味わうことが出来た。性エネルギーを密室で交換する異性愛とはこのようなイーノのアルバムめいた物ではないのか。音楽から性的な実体を夢想するなどというのはやはり無理があるのだろうか。

 たとえリードで首輪を付けられたとしても、その宇宙的合一というような神秘体験を下田も自らで経験しない訳にはいかないのであった。





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