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毎日でも叩かれたいという背徳的な悪ふざけであった / 芸術未満 17

 西宮の暗澹たる空の下で下田は木原美紀のことを考えていた。藤井に対するハセやんのように、木原の事を一途に思い詰めている同級生は他にいるのだろうか。休み時間など木原に近付いていくクラスメイト男子の「目」を下田は何気なしに確認してしまうことがあった。彼らの「目」に真剣な意味(情熱、愛情、好意…)などが映っていなければ良し、であった。彼らはまずは安全である。敵ではないし、当面は脅威ではない。しかし調子のよい男子らが関西弁で丁々発止を行い、彼女から大振りの突っ込みを景気よく体に受けているのは羨ましく、焦燥を感じた。

 下田は様子を横目で見ながら他の男子らと話しているが、気が気でなく心ここにあらずという状態であった。彼女の方に行きたいとも思うが、突然移動するのも不自然で落ち着かず、目が泳いでしまい、木原と男子数名の楽し気な騒動から思い切り目を反らした。

 彼女はおかっぱ髪で前髪はピンで留めていることが多かった。彼女に近付きたいのだが、上手く装わないと「下田は木原を好き」と周囲に気付かれてしまう。児童間で浮ついた兆候があれば、別に何もなかったとしても、稲草らは大袈裟に騒ぎ立て一方的に噂話を瞬く間に広めてしまう。

 木原美紀はマンガの『タッチ』が好きなようだった。下田はサンデーを手に取ったこともなく、あだち充は好みではなかった。彼女の趣味を理解してみようと下田も『タッチ』を読もうと努力したが、絵や雰囲気がどうにもくすぐったく、受け付けず、彼女が好きなマンガだというのに読み進めることができなかった。その本を読めば彼女と同じ話題を話すことができるかもしれない。主人公は双子で片方が死んでしまうことは知っていた。死ぬ弟の名が自分と同じことに下田は小学生らしい期待を持とうとしたが当然何の役にも立たなかった。

 下田は気を引こうと、他の男子がするようなことを、内心怖々としながら彼女に何度か言ってみたことがあった。

 自身の企みを誰にも悟られないよう平静を装うのに必死だったが、彼女は他の男子に対するのと何ら変わらない仕方で下田を笑顔で叩き、女の子らしい張り手を明るく振る舞うのだった。

 休み時間が終わり、席に着いた下田は彼女に乱打された痛みが重要な何かでもあるように、倒錯的な満足感を得てしまった。安堵のような気持ちが広がった。自分が他の男子と同じように同等に蹴飛ばされたことも良いことのように思えた。彼女に好きと言えないなら、毎日でも叩かれたいと被虐的な思いすら抱いた。ぞくぞくするような背徳的な悪ふざけであった。




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