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「実学」…その言葉に怯えたような下田はヌードトランプの絵を見た / 芸術未満 18

 「美」とは何か、という茫漠な問題を学生が大真面目に研究しても許されるのだろうか。

 下田はあるとき電車内の広告で「実学」という文字を見た。『実学を習得。〇〇農業大学』その字は怖ろしかった。美学は「実学」ではない気がする。農作物のように手に取り食べることができる、という確固たる実りや収穫がないのではなかろうか。「実」でないなら「虚」であろうか。虚学。『実学を修め、未来に備える』などと怖ろしい文句も並んでいる。その言葉に怯えたような気になり下田は電車を降りた。

 美学って将来(「実学」の二文字が脅迫的に迫る圧倒的頑丈さ)何か役に立つのだろうか? 農作物などの「大地の恵み」に比べれば「美」など霞のようなものなのだろうか。だが「美」の範疇である「美人」ならば?健康優良な「実学」が生産性を上げ、効率的に資源を活用し、経済性を高めた結果、国力寄与、地域住民や国から表彰される。

 無駄、無意味、非効率、不気味、怠惰、非国民等と断罪され得る声に注意しながらも「美」と「芸術」について下田は学び、調査、黙考、研究を進めなければならない。たとえそれがマンガや歌謡曲の研究であったとしても。虚学だろうが、きっとどこかに意味はあるはずだ。浮世絵や春画の研究が認められるのであれば(美人研究)、ヌード雑誌、例えば「英知出版の青年誌を紐解く―グラビア女性像の変遷」や女性アイドル映像の研究「イメージビデオの誕生―男性不在の純粋世界」なども認められるのではないか。

 下田は虚学であるなら、いっそのこと大学で「少女性」について調べてみるのはどうだろうかと思った。未だ「生産性」と無関係な少女には虚ろな美があると思ったので。「日本文化と少女性」とでもしておけばたくさん本も出ていることだろうし、自身に興味もある。「描かれた少女性」ということで本や映像の蒐集からまずは始めることにしようか。

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 ある日、美術部「礫」の開けっぱなしのドアを過ぎると、部屋では今まで聴いたことのない奇妙な音楽が流れていた。一聴し、耳に残り、気になり続けたので「これは一体何という曲なのか」とラジカセの前にいた男子学生に訊いた。彼はカセットケースを取り出し、「これやね」と下田に見せた。達筆な筆記体で「Brian Eno : Here Come the Warm Jets」と書かれてある。一体これは何という音楽なのだろうか。聴いていると血が騒ぐような楽しい音楽であった。今までこれほど調子外れで意外性に満ち溢れ、しかも絶頂的な気分にさせる音楽は聴いたことがない。「これはイーノやね」とラジカセの前にいた小太りの学生は内気そうに言った。

 下田にイーノの音楽をたまたま聴かせたのは松井という男だった。下田は午後に彼からアルバム名を教えてもらい、そのまま田尻の田園から四条河原町まで興奮してCDを買いに行った。

 化粧をした男(これが「イーノ」なのか)が半開きの口で宙を見ている。ジャケットに写った数々の小物、その一つであるヌードトランプには、しゃがんだ女性が謎めいた燕尾服の男に水たまりの上でスカートをめくられている様子が写っている。ジャケットは安っぽい気もしたが、問題はサウンドである。松井君、今日はものすごい音楽を聴かせてくれてありがとう、早速帰宅して自室で聴いてみるよ、と内心思いながら下田は喜び勇んでCD店を出た。すぐ後に本で知ったが「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ」というそのアルバム名の意味は「射精の一瞬」ということであった。素晴らしい、正に性的絶頂のような音楽だ、とそのときは既に聴き狂い、夢中になっている下田は発奮して思った。



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