見出し画像

人工郊外住宅地では、その言葉は貴重なロック福音であった / 芸術未満 20

 遠野モリカは「クリムトが好き」と言った。下田は彼女に嫌われたくなかったので調子を合わせた。クリムトといえば、高島屋や大丸など百貨店での「絵画即売会」風の展示が思い浮かぶ。貴金属アクセサリーと毛皮の老婦人が金ピカの装飾絵画を見ている。

 だがクリムトには裸の女性など性的な絵が多いところは見逃せない。遠野モリカがこの種の絵に抵抗がない、性画を悪としないということが分かった点が重要だった。

「世紀末ウィーン風」とか何とか言えば遠野モリカは絵や写真のモデルになってくれるのではなかろうか。

 首吊地獄図絵が駄目なら、女体裸婦画像はどうであろうか。モデルになるよう彼女の芸術的嗜好に迎合しながら交渉すれば、もしかしたら上手くいくのではなかろうか。

 彼女を説得するには偽装した格調高さや宝石店的な高級感が必要そうであった。それらも下田には一種のオシャレなアートなのだが、些細な宗旨に拘ると彼女はクリムト風裸体モデルになってくれそうもないのは明らかだった。

 遠野モリカは「クリムトが好き」と言っただけであった。そのひとことから、彼女は裸婦モデルになり得るのでは、と下田は勝手に妄想していた。

……………………………

 下田は「あそびげい」かつ美術部「礫」の数人で宇治川に散策に行ったことがあった。オリーブ色の服装に一澤帆布の滝本と遠野モリカもいた。滝本と数日前に計画して女子学生も誘ったのであった。

 待ち合わせ場所の京都近鉄線小倉駅前で滝本は地べたにしゃがんで『ガロ』を読んでいた。下田はまだその孤高マンガ雑誌を知らなかった。

 ドヤ街近くで酔っ払いや路上生活者たちも多い横浜伊勢佐木町の古本街で高校時代を過ごした下田よりも、京都御池三条辺りの、やんごとないフィルムセンターや大規模書店を自在に活用する滝本の方がマンガや映画にずっと詳しかった。

 マンガ家を目指している2回生の森からもこれまで見たこともない多くの本を下田は教えてもらった。しかし『ガロ』も、森の教えてくれた大島弓子についても「礫」の学生たちは当然のように知ってるようだった。伊勢佐木町の有隣堂に『ガロ』は売られていなかった。青林堂の蛭子能収漫画も売場には一切並んでいなかった。

 伊勢佐木町を徘徊していた際、下田の音楽についての情報源は『FMファン』という雑誌での鮎川誠による連載記事だけだった。それは鮎川誠がロックについて話し言葉で近況報告するような内容だったが、サラリーマン家庭が冷ややかに生活するサブカルチャー未踏の地である人工郊外住宅地では、下田にとってその言葉は貴重なロック福音であった。誌上で鮎川氏が推薦するトラベリング・ウィルベリーズという覆面バンドのアルバムを「これが名盤というものなのか」と感銘を受けつつ下田は一人で聴いた。高校にはそのような話をする友人はいなかった。

 あるとき下田が滝本にそのバンドの話をした際、打てば響くように「モンティ・パイソンの一人がそのアルバムのライナーノーツを書いている。聴きたいと思ってたので今度貸して」という旨を伝えられた。下田はこれまでずっと溜め込んでいた類の話ができる者と初めて会えたので、そのときはとても嬉しかった。

 滝本は芸術学の研究授業でモンティ・パイソンについて発表するとのことだった。それを部室で聞いた七澤は「うわあ、ええなあ。おれもめっちゃ好きやねん」と若きジョン・ケイルのような長髪を揺らせて興奮している。映画マニアの二人は「シリ―ウォーク」だとかいう歩き方の物真似をして大笑いしていた。下田はモンティ・パイソンもシリーウォークもどちらも知らなかった。

……………………………

 下田は「あそびげい」の学徒として古今東西の少女像について比較研究発表をしたらどうかと思った。さすがにデビッド・ハミルトンの少女写真は怒られるだろうか。ヨーロッパと日本では少女性とやらも異なるのではないか? 雑誌『ベッピンスクール』や『すっぴん』の裸婦像(エロ写真)と比べれば比較文化論にならないだろうか。やはり裸体研究は無理だろうか。
少女美術論であれば、少女マンガ研究も必須だろう。どうにもやりがいのある分野に思えてきた。

 下田が美学及び芸術学を専攻に選んだのは、絵の才に溢れる美少女である従姉のことが頭にあったからだった。下田は学芸員の資格でも取ろうと思ったのである。美術館で働ければ彼女ともいつかまた会って絵の話ができるのではなかろうか。少なくとも自分が学芸員であれば彼女と会う際、親からの抵抗は減るのではないか。当時、下田は気が触れていたに違いない。教師にも親にも友人にも誰にも相談できず、孤独な思い込みで勝手に進路を決めた。下田は妄想の「美」と「聖」の象徴に愚かにも直感で従う笑止千万の盲人であった。

……………………………

 宇治川でのピクニックの帰り、下田は遠野モリカの手に触れた。「手相を見る」等と言い、あそびげい数人の学生は手を取り、でたらめな思いつきの占いをした。夕方の電車内、空いたシートに夕日が射していた。異性の手に触れると、お互い唾を飲み込むような妙な沈黙が起きることがあった。アリバイとして下田は滝本の手も見た。「勉強がとてもできます」などと適当なことを言った。滝本の手が女子学生に取られ、触れられるのも見た。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?