肉体が消える時間（下）　/　緊張的微笑 26

　空港に着いた。運転手氏は殺人者などではなかった。私が勝手に「ドストエフスキー小説に出てきそう」と常々思っている娘さんは、今朝母上と何かあったのか、このまま車の中で待っている、という。
　ロシア語で何かを呟き、チェホフ夫人は車を降りた。私も家政婦と共に空港まで付き従った。
　新体操のリボン選手のような長い紐を揺らす添乗員に率いられた一団が目の前を過ぎていく。空港の検査機器類に絡み付かぬよう、体操選手のように慣れた手つきで、長い赤リボンをおじさんが捌いている。
　私はまだ出所不明の不安感に付き纏われていた。暴行や暴力沙汰が起こるのではないか。空港はテロの標的になるのではないか。私は父君から母娘の安全を託されているのである。用心するに越したことはない。あらゆるものが怪しげな物体に思えるし、どの人も何か不審な行動をしかねないような気もする。これはもはやお笑いのコントに近い状態だ。空港で何にでも大騒ぎする臆病者を面白おかしく描けば楽しいに違いない。

　何事もなく夫人を出立ゲートまで見送ることができた。私はただ空腹なだけなのかもしれない。それでこんな不安なのだろうか。何の意味もない。朝食をしっかり食べるべきだったのだろうか。
　私は朝の任務を終えた。後は飛行機会社が無事チェホフ夫人を祖国まで送り届ける必要があるが、それは何故か心配に及ばぬ気がした。
　私は全ては気のせいだったのだ、空腹か寝不足が原因だったのだ、と体調のせいにして、気分を変えようとした。
　覆い掛かるような不安は消え去るべきだ。何も悪いことなど起きない、そう信じれば悪霊退散、病は気から、柳の幽霊、枯れ尾花、私は努めて明るくすべきなような気もした。

　こんなようなことが一度、いや何度か過去にあった気がする。私が車に戻る。隣にスラブ系の女性が立っている。時計が逆回転している。私は子供の頃に遊んだ「悪魔城ドラキュラ」というゲームの題名が浮かんだ。タクシーの運転手はドストエフスキーの娘に暴行などを働いていないだろうか。私の思いは被害妄想だろうか。そうに違いない。しかし何事もない、世は安全だ、平和だと言い切れるものだろうか。これは何度かあった場面のような気がする。以前どこかでこの感覚を間違いなく味わった。どこかで見た景色をおれは今また見ている。ジオラマが完全にその景色を実物大で再現している。時計が逆回転している。この時計逆巻き現象は、家政婦嬢が引き起こしているのではないか。私は不意にそう思った。
　以前、どこかであった既視感の過去内でも、私はそう思った気がする。
　現象を引き起こす犯人を特定すればそれで解決するのだろうか。
　車内のドアを開ける。これもどこかで一度体験した出来事だ。既視感が不安感と折り重なり、「悪魔城ドラキュラ」の８ビットの血飛沫が眼前に見えてしまう。
　逆回転する時計の影響なのか、ドストエフスキー女学生である娘さんの姿がない。写真では人相の悪い運転手は目を瞑り居眠りをしている。
　後部座席に赤ん坊が座っている。
　その頭部は不自然に肥大化している。
　目はどす黒く充血し、何かを訴えるようにこちらをじっと見ている。床にｉＰｈｏｎｅが落ちている。
　彼女がドストエフスキーの少女で赤ん坊であることは明らかだった。
　時間が高速で逆回転している。
　私は何故か、それは言葉少なな家政婦嬢が何らかの不吉な魔術で引き起こしているのだと決め付けた。彼女が怪しい。彼女が東欧の魔術でこんな時空歪曲現象を引き起こしているに違いない。
　既視感はまだ消えない。私はこれから何が起こるか分かる気がする。
　家政婦嬢も同じように赤ん坊に姿を変えている。彼女の頭部も不自然に大きく、不釣り合いに揺れている。目はやはり黒ずむ程に充血している。
　これは誰の仕業なのだろうか。時計の逆回転は止まらない。私は祈るような気持ちで、止めてくれ、誰かこれを止めてくれと眼前の異常な状態にうろたえていた。
　このままでは二人とも、生まれなかったことになってしまう。赤ん坊となった女性たち二人は意識は大人のままなのか、それとも心も逆戻りしているのか、充血で黒ずんだ目は何かを切実に訴えている気もする。私は彼女たちを抱き抱えた。体重がどんどん失われていく。誰かこれを止めてくれ、誰がこれをやっているんだ、誰もこれに気付かないのか、と私は焦燥し正気を失いかけていた。
　このままでは彼女たちは死んでしまう。生まれなかったことになる。不安感はこのことだった。時間は失われ続けている。彼女らは私の目を射貫くように見た。しかしその光も一瞬で、彼女らは自分たちが無に帰するのを知っているようでもある。頭の大きい赤ん坊は人体の形を失い始めようとしていた。私は正気を失った。しかしその場で何をする訳でもなく、突っ立ったまま、狂人として日を浴びていた。
　時計の針は止まることなく逆回転を続けている。