【レポート】OSAKA URBANDESIGN EXPOLRE vol.2『HOPEゾーンと歴史的市街地再生』(講師:吉野国夫さん)
設立から18年を迎え、メンバーも11人になったハートビートプラン。
活動のフィールドも領域も広がり嬉しい反面、大阪に所在する事務所として、もっともっと大阪のことを学び、関わりを深めたい、そんな思いから、社内連続講座「OSAKA URBAN DESIGN EXPLORE」をスタートしました。
大阪で先進的な都市デザインを実践されてきた方々をお招きし、直接レクチャー頂くことで、ハートビートプラン社員の大阪への理解を深め、また内容をアーカイブし一般に公開することで、広く大阪の挑戦を次世代に伝えてゆくための試みです。
vol.2は歴史的市街地の再生に長く携わってこられた吉野国夫さんをお招きして開催しました。そのレポートをお届けします。
※vol.1に先行して、vol.2のレポートを公開いたします。
今後、講座のレポートはこちらからご確認いただけますので、ぜひご一読下さい!
現場主義の原点
1973年、24歳の時に、アートプロデュースを事業化しようと、アーティストや建築仲間10人くらいと、スタート。ビデオアートやパブリックアートに挑戦。これ自体は全く商売にならず挫折しかしていないが、唯一残ったのがプロセス。再起をかけてリスタートしたのが現在のダン計画研究所。
当時は大阪に都市や地域に特化したシンクタンク兼コンサルのような業種は存在せず、企画・アイデア・調査・デザインなどなんでもやってきた。例えば、カレー屋をやりたいという相談を受けた時には、スパイスの研究から始め、シルクロードに行きつく。スパイスを通じてシルクロードの味や文化を体験してもらうコンセプトを固めたが、実際に行かなければ本物の店はできない、と現地にオーナー親子を引き連れイスタンブールからパキスタンまで行脚。結果として今でも続くカレー屋さんができた。
その後もある企業が外食産業に進出する企画設計を受託。メニュー開発から服装まで全部プロデュース。ポスターの印刷を発注する際、色指定が必要になり、現場で色の作り方や指定の方法を教えてもらったり、素人ながら様々な経験をした。
ダン計画研究所が現場主義を貫き、リアルな人間関係や人的ネットワークを大切にしながら現場に即した企画を進めているのはその頃から変わらない。
「街なか」への着目
コンサルタントとして、様々な構想を裏付けするような調査等を担う中で、都市政策や産業政策についても取り扱うことが多くなった。
当時は、「立地創造」という言い方をして、どんな場所でも開発すればアクセスもついてきて中心が作れる、という楽観的な思想。しかし、実際には郊外で立地創造の運営がうまくいっているのは、国土軸に沿ったものに限られている。
こうした郊外型の立地創造に対して、「街なか」の立地創造というのはあまり着目されていなかったが、大いに可能性があるのではないかと感じた。リゾートという概念も「街なか」を考える大きな要素となる。リゾートとは、ほっとする空間・時間であり、その観点からすれば、何週間も滞在するのではない「五分間のリゾート」も存在してよい。都市開発を考える上で、暮らしの場に近接した「街なかリゾート」の存在や、パブリックな繁華街とプライベートな住宅街の間にあるセミパブリックな半日常空間としてのシティリゾートの存在には大きな価値があるのではないか。
まちづくりの原点。空堀地区との出会い
こうした考えに至る原体験は、空堀地区にある。1974年に空堀と出会った。谷町4丁目の事務所から南に300mほど下ったところの密集市街地、空堀を見て、感動した。戦前からずっと住んでる人や、地方から大阪に出てきて、エリートじゃない人がいる。大阪の歴史を感じる良い所を研究しようということで、谷町界隈調査団というサーベイグループを作った。
日曜日に事務所に集まって、空堀に繰り出して、街をしらべたり、祠を調べたり、しらみつぶしに調べた。街歩きをして、地図に落とし、飲みに行く。このころ徹底的にのめり込んだことが原点。
さらに、もっと民族的な調査もしてみたいと思い、聞取り調査や建物実測などをやって1979年に日本民族会の関西例会で『都市の長屋の近隣社会』を発表。葬式や初午祭、近所づきあいなど、今では絶対不可能な研究ができ、まちづくり思考の原点になった。
路地を大切にする活動
2003年、空堀との出会いから。アメリカ村や南船場などの動きが注目されるなか、東京でのシンポジウムで、「街なか」の概念やまちなか産業を提唱。「知はまちなかに、資源はストリートに」という発想で、ストリートベンチャーとしてのカフェの存在の重要性や、豆腐屋さんお菓子屋さんなどが自分たちで作って売る製造小売が街なかで生き延びる、と語ってきた。
こんなことをしながら、2003年11月に東京で路地サミットをやるから来て話せということで、空堀の路地や、空堀まちアートの話をしたところ、話が盛り上がり、「全国に路地はあるから、全国で路地を大事にしよう」という機運が高まり、翌年全国まちサミットを大阪で開催、「路地のまち連絡協議会」が発足した。
なぜ大阪が先進地になったかというと、法善寺横丁があるから。界隈性のある横丁が焼失、通常は焼けてしまったら4mの道路をあけなければならなかったがそうすると路地じゃなくなってしまう。何とかできないかと当時の市長や担当者が頑張ったのが建築物連坦制度の活用。これを全国の関係者が見たいといい、法善寺や空堀も見てもらい、路地宣言に結び付いた。今年は長崎で路地サミットが開催予定である。
ルールだけでなく担い手の重要性
天王寺の南東にある環濠都市「平野郷」は強固なコミュニティがあり、建物も残っている。これを何とか残していきたいという思いから、1990年に大阪市の事業で平野郷にHOPEゾーン計画を立ち上げた。
大阪平野郷に入ってやっていくには、協議会を作らないといけない。この協議会の立上げまでが非常に重要。ルールを作るのは1年でできるが、協議会を作るのには3年かかった。最初は門前払い、徐々にコミュニケーションをとっていくことの大事さを学んだ。最終的には高さ規制までできたがこれはすごいこと。財産権の侵害だと言われるかもしれない中で、それでもやろうという人がいるかどうか。役所が担いでいただけで真剣に推進する人がいなければ、結局最終的にはルールはあっても実現しない結果になってしまう。
より広範囲で面的に取り組むことになったのが、上町台地マイルドHOPEゾーン。約900haのとんでもない大規模なもの。2006年からの事業開始に向け、その1年2年前から組織づくりをスタートし、2005年には上町台地に関わる主要なメンバーを一同に会して、そこで協議会を作った。
それでもなかなか全体の動きは作れなかったが、10年間、助成金でどんどん研究を進めることはできた。調査研究の予算がたくさんあったので様々な研究ができたのが良かったが、地元に何を残せるかとして考えたのが、オープン台地の仕掛け。上町台地のあちこちを開く「住み開き」「まち開き」のプログラムを結集させ歴史の重なりを体感できるプログラムを立ち上げた。
コンサルタントの宿命と役目
コンサル業というのは街づくりしたいのだが、結局やりっぱなしになるのは宿命。最後までやるには住まないといけないが、お金が無ければ生活も出来ない。生活と社会的な意義をどこで折り合い付けていくかが難しい。コンサルというのは賞味期限がある前提で、その間にいかにDNAを残していくのかが大事ではないか。
街に残そうとしても、結果的には失敗失敗の繰り返し。それでもせめて、自分たちが活動したことが何かその町に残っていく、消えゆくものを少しでも延命する。それだけでも価値があると思う。歴史というのは積みあがっていってつながっていくのが歴史であり、それがあるのがまちだと思う。
大阪には今、「ここがいいね」っていうのが少ない。今イキイキとしているものを次の世代にどうつないでいくか。コンサルの立場でも学者の立場でも、何か消費するだけでなく、何かを生み出して作っていく重要性を伝えていきたい。
お話をお聴きして
吉野さんのお話をお聴きして感じたことは、好奇心の大切さ。いきなりカレー屋さんのお話をお聴きしてびっくりしたが、どんなことにも好奇心を持ち、深く現場で探求することで、大いなる広がりを持つことができるんだ、と実感させられました。過去を消費するだけでなく、何かを生み出す、その原動力としての好奇心、大切に意識していけたらと思っています。
(レポート記録:木村)
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