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仕事仲間の声:都市計画家  土井幸平さんに聞きました(2012年5月公開)

(Q.泉英明に激励の一言をお願いします。

「地域に学び、地域と歩む!」

泉英明との出会い  
私は大阪で生まれて、神戸で育ちました。終戦前に大阪から疎開し、小・中・高を神戸市垂水で過ごしました。大学は東京に出て東京大学で建築を学び、「都市計画」という分野に出会いました。「都市全体をどう組み立てていくのか」という学問です。研究室に5年間暮らし、その後学友達と共同で㈱都市計画設計研究所を立ち上げました。当時はまだまちづくりやコンサルタントの職種がほとんどなかった時代でしたね。26年間の研究所生活の後、大阪市立大学に教授として就任し大阪へ戻ってきました。

私が大阪府都市計画審議会の委員として「成熟時代の大阪都市づくりのあり方の提言」を準備していた時期に、東大阪工業集積地の住工混在問題が一つの課題でしたが、その委託調査を泉さんが担当していました。仕事の上での最初の出会いです。 その延長上に、東大阪市住工共生地域整備調査検討委員会が立ち上がり、私は委員長役で、その現場作業の中心は泉さんでした。彼は、資料調査のみではなく、東大阪を代表する"ものづくりのまち"高井田地区に飛び込んでいき、地元有志と語らってまちづくり協議会を立ち上げ、その活動を支援し続け、協議会が住工共生の地区計画案を市に提案するまでになったのです。

「地区計画案を作る」といっても、まずは地元の人たちが理解しその気になって、自ら市長さんや東大阪市工業会を説得して賛同を得ないと出来ませんからね。まち全体の意見を聞くため彼は有志メンバーとともに色んなアンケートを企画実施したり、「高井田のチカラ」という広報冊子をつくったり、高井田まちづくり構想を策定したり、実にいろんな協議会活動を企画支援していました。その結果の地区計画案です。 彼には、まちづくりの"ありきたりの形"ではない着眼と実行のセンスがあります。 "まちづくり"は、場所によって人も違うし課題も違うから、教科書があるわけではないのですから。その中で大事なキーマンに巡り合う、見つけ出す、仲良くなってしまう。地元の人とのやりとりの中でまちづくりの切り口を見つけるという。もともと彼にはそういう人間好きなところがありますね。

幅広いネットワーク!?  
泉君が委員会の調査メンバーの一人だった頃、実は私の息子が泉君のことをよく知っている、ということが分かったんです。 息子は大学に入る前の浪人中に、バイク好きの酒呑み仲間が集まる会があったようなんです。その中の一人に泉君がいたという(笑)。泉君は別に浪人生ではないし、大阪大学に入学していたのですが、何かのきっかけで東京にいる予備校生の息子と良くなり、大学卒業後も付き合いが続くうちに、「おやじが似たような仕事をしている」という話の中で僕のところに結びついたらしい(笑)。 「なかなか面白くて、豪快なやつだ」というのを息子から聞いて、そんなこともあり泉君に対して親しみを持つようになりました。

さらに、広がるネットワーク  
仕事としては、東大阪市の「住工共生」政策への取り組みで関わったのが中心で、泉君のその他の仕事に関しては話を聞くくらいで、その後も何かを一緒にしたというのはないのです。そして僕は大阪市立大学で10年勤めた後、今度は東京の大東文化大学に行くことになりました。 大東文化大学のある東京の板橋区は東大阪市と同じように大都市工業集積地です。私は板橋区の産業政策の方たちと縁ができ勉強会に参加していました。ある時、東大阪市の事例を泉さんに話に来てもらったことがありました。その時に東京の勉強会の仲間たちが泉さんのことを非常に気に入ってくれて、それからもちょくちょく泉君を呼んで集まっているようですね。僕の知らないところで、彼らが勝手にやっています(笑)。 私は大東文化大学は2004年からですが、この間に泉さんは東京の専門家連中にもよく知られるようになりました。

相手を引きだし、仕立てる能力  
とにかく、人間が好きというか、どこでも飛び込んでいって友達をつくってしまう。人間力が豊かで、人に好かれ信頼される。いつもにこやかです。身体も大きいし、声も大きいけれども「威圧する」という雰囲気がない。 そして、先に身体が動くタイプなんでしょうね。動きながら頭を働かせ、情報をうまくキャッチして、相手を引きだしながらうまく企画に仕立てあげるという能力がありますね。「すごく頭が切れる」とか「シャープさ」を見せずに。出来すぎると相手は警戒しますからね。相手に警戒されない、どこか抜けている部分があるんですかね。(笑) 外からはなかなか見えないけれどもよく勉強しているのだと思いますよ。専門的なこと、専門外のことも、彼流にね。自分の専門だけでは相手からうまく引きだすことは出来ませんから。

板橋区は、東大阪市よりずっと前の15年くらい前に「工場地帯にマンションを建てさせない」という地区計画が出来たのです。東大阪市の地区計画案のとき、泉君はそれを参考にしたと思うし、他にも尼崎市などの事例を調べてその上で東大阪市独自の地区計画案を作っていったと思います。その一方で、板橋区は東大阪市の「住工共生」というやり方が非常に新鮮で望んでいた考え方だったのです。だから、本当は泉君みたいな人が板橋区にも欲しいのですけどね。

東京と、大阪と
私は大阪にはないものを求めて東京へ出たと思います。東京で「都市計画」という専門を築いて大阪へ帰ってきたとき、非常に懐かしい気持ちになったのと同時に、また違った角度から大阪のことを眺められたのです。泉君が「東京出身で大阪で活躍している」ということは、東京にはない何かを求めて大阪へやって来たのかもしれませんね。また、そういう外側の視点というのはまちづくりには欠かせないものなんでしょうね。 彼は、今では"大阪にはいなくてはならない人"という存在だと思います。今後、自分の専門を深めて東京と関わる機会があるとまた面白いと思います。

40代へ
出会ってかれこれ10年を越える付き合いになります。泉君の30代は「都市計画」という絶滅危惧種の中の"大型新人"だと思っていたんです。「都市計画」という分野は僕の頃が全盛期で、今はほとんど仕事がありませんからね。そんなことをおかまいなしに活躍している彼は希少価値ですよ(笑)。 家族が増え、社員が増え、責任が少しずつ重たくなっていく中で、これからの40代が正念場でしょうね。 彼がやっていることを見ているのは楽しいので、次は何を始めるのか楽しみにしています。「旅めがね」なんかも着想がとても面白いですしね。忙しいだろうから健康に気をつけて。また新しいことを開拓しながら頑張ってほしいと思います。

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平井義郎 
都市計画家 大阪市で生まれ、神戸市で育つ。東京大学大学院建築学専攻修了後、都市計画の研究所を仲間と共に立ち上げ、26年間代表として全国各地の都市計画に関わる。1993年大阪市立大学工学部教授に就任。阪神・淡路大震災に遭遇し、兵庫県復興10年委員会委員として復興まちづくりに尽力するなど、多方面で活躍。2004年には大東文化大学環境創造学部教授に就任。昨年退任後も常に時代の先駆者として、都市や地域のあり方を模索しながらまちと関わり続けている。



取材・文:2012年6月 楢 侑子

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