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東京都立大学エリカ混声合唱団 第49回定期演奏会第2ステージ「アイロニック・ブルー」―終


最後の稿となります。最後の最後までお付き合いいただきありがとうございました。

そろそろ脳が疲れてきた。こういう創作は、たまにやるから面白いんだよな、と思う。定演前に1分くらいの宣伝動画を勝手に作ったのだが、あれは楽しかった。では、またやるか、といえばしばらくはやらない。こういうのはたまに、で良い。合唱だってそうかもしれない。たまにやるのがちょうど良い。



身に余るお言葉たち

演奏の感触がよかったぶん、終演後にお客さんにどう受け止められているかを知るのは怖かった。上手袖を通って恐る恐るロビーに出ようとすると、道中で2つ上の代の学生指揮者(現在修士2年生、今年度卒団)に出くわした。彼は私を見つけるやいなや痛いほどきつく私を抱きしめた。熱い抱擁だった。私はこの瞬間、学生指揮者の任期を終え、解放されたんだな、と感じた。先輩方のような頼りがいのある学生指揮者になれたかどうかはわからない。終わってしまったことを悔いていてもしょうがない。

ロビーではお客さんたちが帰宅し始めていた。津久井さんが「演奏が良かったかどうかはお客さんの表情を見ればわかる」と言っていた。お客さんたちのあの表情は何を表していたのだろう。

あまりにも疲弊していたから、私は一緒にロビーに出てきていた卒団生の集団の一番端っこでお客さんの流れをボーッと眺めていた。卒団生と話しているあの年配の方は親御さんだろうか。招待した先輩にお会いできるだろうか。そんなことを曖昧に考えながら佇んでいると、見知らぬ女性に声をかけられた。聞けば、団員のご親類の方らしい。表現力を褒めてくださった。それは社交辞令ではなく、心からそう思っていただけたようだ。わざわざお声をかけていただいて伝えてくれたことがとても嬉しかった。これはアンコール前のMCでも露呈したことだが、私は話すことが苦手だ。初対面のこの女性とも上手く話すことができなかった。この場を借りて、改めてお言葉へのお礼を申し上げたい。

OB・OGの方にもたくさん褒めていただいた。完成度の高さもそうだけど、表現したいことができていたかどうかが私は知りたかった。だから、そういった褒め言葉をくださったときはとても嬉しかった。「うまい」と褒められるのも素直に嬉しい。でも、下手クソじゃだめなのか。私にはそこがよくわかっていない。だから、完成度を褒められるのは少し複雑な気分にもなるのが正直なところだ。拙いものにも感動することはあるではないか。何を持って合唱は「うまい」と言えるのだろうか。指標があるとしたらつまらない。

津久井さんにもとても褒めていただいた。印象的だったのは、終演後の懇親会での「今日の大河くんと同じくらいの指揮は振れると思うが、それ以上の指揮が振れるかは自信がない」という言葉。嬉しいけど、はっきり言って言い過ぎだ。重いって。これは津久井さんももちろん承知の上だろうけど、指揮の良さもそんなに簡単に決められるものじゃない。ただ、津久井さんに評価してもらったことは嬉しかった。指揮で言えば、津久井さんは恩師だ。基本から丁寧に教えてくれた。津久井さんは教え方を私に合わせてくれた。「アイロニック・ブルー」の4曲についても、たくさん相談に乗ってくれた。だから、津久井さんがいない限りはあの棒は振れないのだ。それなのに、あんなことを言うのは狡猾である。

湯川先生も、終演後口頭で、またLINEでも長文でお褒めの言葉をくださった。LINEでのお言葉を母親に見せたところ、「立派な方だね」と言われた。人を手放しに褒めるというのは簡単なことではない。同業者ならなおさらだ。終演後も湯川先生は本当に感激したご様子だったけど、自己肯定感の低い私はプロの歌手が大学合唱団の演奏に感激なんてなさるだろうか…などとかんがえてえしまったりはするものだ。でもせっかくいただいたお言葉は大切にしたい。「もう僕の手助けなんて必要ないね」なんていう終演後のお言葉には、さすがにそんなことはない、これも湯川先生ありきなのだ、これからもよろしくお願いいたします、と思うのだけれど。

湯川先生には私はいつも「音楽性」をお褒めいただく。「音楽性」とは何ぞ。なんとなくわかる気がするが、つかめない。だから、こういった褒め言葉は、褒めるところがない人に仕方なくかける言葉なのではないか?と思ったりする。それはともかく、湯川先生は、私のそれを「プロでも通用する」と評する。やっぱり嬉しい。もちろん文字通りに受け取るには私はまだまだ色んなことを知らなすぎるけど、今後も音楽(指揮)を続けようかな、という気になれる。恩師からかけていただく言葉は特別である。

菊間さんには、「―4」でも書いた通り本番での私の「圧」に少し引かれていたようだが、またご一緒できればとお声がけしたところ、快諾してくださった。終演後は色んな人に褒められすぎて、そして貶されることがあまりにもなさすぎて、正直なところ逆に演奏が悪かったのではないか、と疑心暗鬼になっていたのだが、このやりとりを見ていた津久井さんには「良い演奏ができたと思われないとまたご一緒したいとは言っていただけない」と言っていただき、まあなるほどな、と一応は腑に落ちた。ちなみに懇親会のときには津久井さんがたくさんお褒めくださったので菊間さんは私への褒め言葉を「割愛」されたのだけど、どうせあるのなら言ってほしいのに、と切実に思った。褒め言葉というのは内容以上に言う主体が大切なのだ。


※追記 菊間さんが「エリカ混声合唱団のはなし」に、追記として私に関して思ったことを書いてくださった。たいへんにありがたい話だ。お返事したい気持ちも山々であるが、それも今は胸の裡にしまっておきたい。読者の皆さんは、改めてではございますがぜひ菊間さんの稿も御覧ください。


ここまで自虐風自慢。


でも本当に、ここまで褒められてしまうと、プレッシャーに感じてしまう。期待されるのは苦手だ。言葉を素直に受け取りすぎかもしれないが、聴き手はいつだって勝手なのだ。私はもう二度と指揮は振らないかもしれない。合唱も続けるかはわからない。卒団後も続けるかはわからない。冗談ではなく、本気で言っている。だけど、期待されないよりは期待される方がマシだし、それに応えるのもまた幸せなことだろう。聴き手ありきでやるのは好きではないけれど、また届けたい思いがあるときにそれを合唱を通じて届けられたら良いな、とは思う。たまにやるのが、ちょうど良い。



後輩の皆さんへ

今回の定期演奏会を通じて、皆さんにも定期演奏会って良いな、ここに向けて頑張るのもアリかな、と思っていただけただろうか。どうでも良いことに力を注ぐのは苦痛だ。苦痛なだけの定期演奏会だったらやらないほうが良い。自分たちも感動できる、そんな定期演奏会を作り上げていってほしい。そういう目標があったほうが、練習も仕事も苦痛じゃないので。この感動がまたできるなら頑張れる、そう思ってくれたならこのうえなく幸せだ。

5つの記事にわたって長々と思うところを書き連ねてきたが、果たしてこれは必ずしも正解ではない。そもそも正解は一つではない。私のやり方を一つの参考に、さまざまな角度から検討していってほしい。理解しきれない部分もあったと思うが、より良いものを作るために考え抜いた先で、理解できるだろうと思う。少々上からの物言いになってしまって申し訳ない。だって、自分が苦労してようやくたどり着いた考え方を本当の意味ですんなりと理解されてしまったら、なんだか悔しいではないか。


来年度は私は2回めの4年生として、引き続きエリカに携わる予定だ。困ったことがあったらいつでも頼りにしてほしい。私は「これはこうするべき」というハウツーを持っていないから、より皆さんを困らせてしまうだろう。良いものを作り上げるには、できる限り回り道すべきだ。そんな考えをもったひねくれ者でも良ければ、今後ともどうぞお付き合いください。




(終)

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