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東京都立大学エリカ混声合唱団 第49回定期演奏会第2ステージ「アイロニック・ブルー」―1


先日、私が所属している東京都立大学エリカ混声合唱団の定期演奏会が無事に終演した。開催・運営に並々ならぬご尽力をいただいた、団内外の全ての方に感謝を申し上げたい。

興奮も冷めやらぬ演奏会2日後の深夜、私は某コンビニエンスストアの事務所内にいた。この店舗はほかでもなく私のアルバイト先であり、深夜勤の今日は仕事を早く終わらせ、休憩時間を満喫中である。

人間は全ての記憶を忘れていく生きものであるが、自分の中で学生指揮者としての集大成と位置づけていた定期演奏会を終えて、今の率直な気持ちをどうにか残しておきたい、正確に言えば「覚えていたい」という思いを無視するわけにはいかず、本名名義でのnoteアカウントをわざわざ作成し、いくつかの稿にまとめてみるかという考えに至った。ご来場くださった方やアーカイブ配信をご覧になった方に読んでいただけたら、より「アイロニック・ブルー」がいったい何であるかを少しは理解してもらえるかもしれないし、これからのエリカを担う後輩たちに読んでもらったら、彼らのめざす音楽への一助となるかもしれない。そんな仄かな期待と、思いを言葉にし、文字に起こすことで失われる「何か」へのノスタルジーを抱えながら、本稿を書き上げていく所存である。



大学合唱団が定期演奏会を開催するということ

当団が定期演奏会を開催できたのは2年ぶりのことであった。本来であれば毎年冬に開催するはずが、昨年は言わずと知れた名ウィルス・COVID-19の流行により開催を断念せざるを得なかった。苦渋の決断を同じくした合唱団も多いことであろう。異常な社会である。

本来であれば私は昨年の定期演奏会のタイミングで学生指揮者からは身を引くはずであった。だからこそ、開催断念への悔しさは人一倍強いものがあったと思う。新歓活動が”アレ”の影響でまったく行えず、新入団員から指揮者を出すのが困難だったとはいえ、1年延長して学指揮をやらせてくれた仲間たちには頭が上がらない。

私はもともと、大学合唱団が抱える宿命的なものを考えていた。大学生とはどんな時期であるか。この時期だからこそ歌えるうた、この時期にしか歌えないうたがきっとある。入団と卒団。若さとは何か。大学合唱団の定期演奏会では、何を表現するべきだろうか。いや、我々が心からせんと欲す表現とは何であるか。そんなことを考えているうちにも、私たちは年老いていった。私たちには時間がないのだ。


そのタイミングでのコロナ禍。自分のステージでやりたいことは、否応なしに絞られたと言って良い。



曲目と曲順

それゆえに、曲選びには本当に苦労した。一つのステージで一つの組曲あるいは曲集を演奏するのがセオリーであるが、表現のためにそれらに身を委ねるには、恰好のそれが存在しなかった。あるいは私が表現したいものは、一つの完成した物語から解放され、自ら物語を作ろうとする営みによってのみ達成されるものだったかもしれない。考えあぐねた結果、アラカルトステージを構成することにした。

エリカの先輩に教えてもらった、大好きな曲がある。混声合唱曲集「かなしみはあたらしい」(作詩 谷川俊太郎、作曲 信長貴富)に収録されている『泣いているきみ』という曲だ。「きみの涙のひとしずくのうちに あらゆる時代のあらゆる人々がいて ぼくは彼らにむかって言うだろう 泣いているきみが好きだと」明るいイメージと暗いイメージを繊細に散りばめた信長先生の曲が絶品だ。

決して後ろ向きではなく、しかし現実をしっかりと受け止め、愛そうとする「ぼく」の姿は、私の「青春」のイメージに重なる。葛藤を抱え、ときに妥協し、ときに怒り、道に迷い、太陽に恵まれ、雨に降られ、それでも気高く前に進んでゆく。一方で世間の「青春」という言葉の意味合いはどうであろうか。あまりにも汚されてはいまいか。トレンディ俳優が出演するドラマのように、憧れるものではない。「青春」という言葉の意味を取り戻したい。それが、今だからこそできることなのではないか。私が信長先生の曲でステージをまとめたのは、信長先生の曲は、リアルな青春をよく表現していると思っているからだ。(あと、作風を鑑みるに、おそらく信長先生は、「葛藤」のようなものに人間の本質を見出そうとしているのではないかと勝手に思っている。)

『恋唄・空』(詩・日原正彦)は、恋をモチーフにその葛藤を表現できる曲だと思う。1曲めであるが、このステージをいわば総括している。ただしここにはもう一つのテーマもひそんでいて、葛藤そのものが私たちの送りたかった青春なのではないか?ということである。つまり、葛藤は無限にループするということだ。葛藤は理想だ。では、誰かに恋をして、それに悩むこと、行動し、後悔することすらかなわない時代が来てしまったとしたら……

『かなしみはあたらしい』(詩・谷川俊太郎)は、先述の曲集「かなしみはあたらしい」に収録されている。正直『泣いているきみ』とものすごく迷ったが、ひらがなで書かれた言葉がよりダイレクトに伝わる『かなしみはあたらしい』を2曲めに選んだ。なぜ言葉の直接性にこだわったかといえば、私たちのコロナ禍における苦しみの元凶は、大人たちの不甲斐なさにあるということを自覚し、反省していただくためだ。また、1曲めの『恋唄・空』に対して、2曲めにわざわざ自らが「かなしい」ということをアピールしたか。その答えは、当の大人たちがいちばんわかっていることなのではないか。なんだか説教じみた書き方になってしまったが、これも今だからこそできることなのではないか、と思うのだ。

3曲めの『青春譜』(詩・五木寛之)。これはすでに定期演奏会のパンフレットに書いているので、割愛したいところだが、持っていない方が読まれているかもしれないので、以下に引用する。

我々の日々を、「青春」という言葉に当て嵌めるには、我々はあまりにかなしみすぎた。
そこには、刻まれた一瞬があり、刻みたくなかった一瞬がある。
刻まれなかった一瞬のなかには、刻みたかった一瞬がある。
それぞれの一瞬のために、かなしみを忘れてはならない。
思い出したくもないのに!

刻みたい一瞬。かなしみが困難を超えてゆく。
だから、ようやく迎えた今日という日は特別である。
この季節は長くは続かない。次なる季節には、どんなかなしみが待っているだろうか。

今日を迎えられた喜びと、あのかなしみを抱き締めて、我々は歩いてゆく。

終曲に『春』(詩・新川和江)を選んだ理由も、概ね上記の文章で説明できていると思うのだが、ここには一つ、私の表現における大事なこだわりがある。ステージの構成の面から言って、3曲目の『青春譜』の方が、いわゆる「終曲っぽさ」がある。青春譜の壮大さは、ステージを締めるにはたしかにふさわしいだろう。そこをあえて『春』を『青春譜』のあとにもってきたのは、それぞれの詩の言葉をもっと大切にしたいと思ったからだ。お客さん、それから歌い手に詩の世界を最後まで堪能してほしい。私が求めたのは「いかに盛り上がるか」ではなく、「いかに伝わるか」「いかに共有できるか」という点だったのだ。

ここまで言葉で説明してしまったが、音楽を言葉で説明することにはやはり抵抗がある。演奏を聞いていただき、お客さんに感じ取ってもらったもの、それがすべてである、というのが私の考え方だ。

本稿の最後に一つだけ、お客さんに書いていただいたアンケートの中に、曲順について興味深い記述があった。公開を前提に書いていただいたわけではないので、直接引用することは避けるが、内容は概ね以下の通りである。
「最後に『春』をもってくることで希望をもって終わらせるところに、選曲者の真面目さを感じた。皮肉(アイロニー)なまま終わっても面白かったと思うが、もしかしたら『春』で終わらせたこと自体が皮肉なのか。」


私は結局「良い子ちゃん」であり、真の表現者にはなれないのかもしれない。



(続く)

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