ゴーヤを食べらること

今日は父が晩御飯を作ってくれた。
内容はゴーヤチャンプルーとモツ煮込み。
なんともビールが飲みたくなる献立で、いかにも59歳男性が好きなメニューだ。

幼い頃はゴーヤチャンプルーなんて食べる日が来るとは思わなかったが、今は、食卓にゴーヤチャンプルーが並ぶと、嬉々とした気持ちを隠せない。私の内に眠る武士達が列になり、宴じゃ宴じゃ、と脳内で法螺貝を吹き散らかす。

皆の者、落ち着くのだ。将軍の如く大きく構え、武士たちをいなしながら、ゴーヤを口に運ぶ。そしてゴーヤの独特の苦味の残るうちにビールを流し込めば、エイヤーサーサーと沖縄が向こうからやってくる。あ、どうも、ご無沙汰してます。向こうからやってきた沖縄に一礼したくなるほどの美味さ。

ビールとゴーヤチャンプルーの組み合わせがこんなにも私の心を躍らせる日が来るなんて、子供の頃は想像もしていなかった。気がつかない間に、成人を迎え、ビールの旨みを知り、ゴーヤの苦味を理解できるようになった。それは、年を取ることで得られる幸せとあの頃にはもう戻れないのだ、という切なさが同居しているようだった。

「ねぇ、お父さん、あたし、ゴーヤが食べれる」

私が言うと、父は「そうだな」とひとこと。

「ちがうよ、ゴーヤが食べれる日が来るなんて…。嬉しいようで寂しいことなのかも」

私は父に熱い視線を送った。

「ふっ…」

父は私の話に胸を打たれたのか、少し何か考えたあと、「今日の鬼滅の刃の録画してくれてる?」と聞いてきた。ゴーヤの苦味が分かるだけでは、大人になったとは言えないらしい、と父のことを見て思った。

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