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ジブンガタリドットコム 「ぷぅさん」

「ちゃんとする」の呪縛

いつからだろう。
「ちゃんとしてる」ことが普通と考えるようになったのは。

家族のバランスを取っていた小学生

父親が大工で、母親は資材整理などで夫を手伝う、共働きの両親の元、2人姉妹で育った。
母は小学校から帰った時に「おかえり」と家で迎えてくれる。
でもその後、また働きに出ていく。

両親が家に帰ってくる頃に、食事を揃えておくのは当たり前だった。
小学校3年生の頃にはご飯、味噌汁、と夕食を毎日作っていた。
妹と協力して家事を回していた。
「ご飯と洗濯どっちがいい?」と絶対に洗濯を選ぶだろう妹に聞いて、洗濯嫌いの私がご飯係をやってあげていた。

親の言うことは聞くもんだ。
言われなくてもやるもんだ。
それが普通だと思っていた。

ちゃんとした姉、自由な妹

小学校の頃にはもう、「ちゃんとしてる」お姉ちゃんだった。

確かに自分でも「ちゃんとしていた」と思う。
規則を破る、約束を破るなんて考えもつかない。
宿題を出す、遅刻をしない、サボらない、なんて当たり前。
結果、幼稚園から高校生まで無遅刻無欠席の皆勤賞。

中学生の頃、「ちゃんとしてる」お姉ちゃんがいつの間にか苦しくなっていった。
3つ下の妹は私に比べて自由奔放。
規則を破るのが得意で、禁止されている自転車で学校へ行って部活停止になったり、よく先生にも「お姉ちゃんはちゃんとしてるのになんでできないの?」と叱られてたりしていた。

うちの門限は夕暮れだった。
学校の授業が遅くまである時は、終わればすぐ走って家へ帰る。
「ちゃんと帰ってきたね、えらいね」と母親に言われてほっとする。
その反面、妹は暗くなっても、夜10時まで帰ってこない。部活の後、おしゃべりをしたり色々あるのだろう。
帰ってこない妹を待つ両親が、家でイライラしてるのを見るのが私は怖かった。

妹が帰ってくると「なんでこんな時間まで帰ってこないんだ!」と父親の怒声が響く。妹は怒鳴られても気にしない。
だから、同じことが繰り返される。

怒鳴った後、両親は言葉もキツくなるし、私にもとばっちりがくる。それも私は怖かった。時々、両親がそのまま喧嘩になることもあった。
そうすると決まって、母親が近くの公園に家出をして、私が迎えにいく羽目になったし、妹が悪さをしていれば、何もしていない私が妹と一緒に謝る羽目になった。

私が家族の調整役だった。
家の中を丸く収めて、仲直りさせてねと誰にも言われたわけではないけれど、私しかいないじゃない。
これで私の「ちゃんとしなきゃ」が発動する。

なんで妹は自由に行動できるんだろう。

規則を破りたいとは思わなかったけど、何か自由を手に入れたい。
自分の人生を歩みたい。自分の意思で自分の夢を自分で掴みにいきたい。
そんなふうに思うようになっていた。

学校以外の「ちゃんとした」私

私は学校以外でも「ちゃんとして」いた。

3歳からピアノを始めて、小学校4年生では週4でピアノ教室に通っていた。
そのほかにも習字を週2回。スイミングを週2回。

平日は学校から帰ってきたらピアノを2−3時間練習して、ピアノ教室へ。
土曜日は3つくらい習い事を掛け持ちしていた。
友達と遊ぶ余白は私にはなかったし、それを疑問にも思わなかった。

通っていたピアノ教室は、これまた厳しいピアノ教室で、爪が伸びているだけで、先生に手を叩かれてレッスン終了。
今だと考えられないかもしれないが、厳しい時代だった。
ピアノは教室が終わった後、夜の10~11時まで練習しないと出された課題をこなせなかった。
きっと、親は私に音大に進んで欲しかったんだと思う。

今振り返ると、とても忙しい子ども時代だったなと感じるし、遊ぶと言う余白は全くなかった。
それでも、何かをサボる・辞めると言う選択肢は当時の私にはなかった。

「ちゃんとした」お姉ちゃんに苦しさを感じ始めた、中学生の頃に気づいたことがある。
自分にはピアノで食べていけるほどの才能はない、ということだ。
ここまでピアノ練習を真面目に取り組んでいると、センスのある・ない、がわかってしまう。そのセンスは自分にはなかった。
でも、ピアノ自体は好きだった。小学生の卒業アルバムにも、将来の夢はピアノの先生か看護師と書いていた。

高校生になるときに、変わらず、将来ピアノの先生か看護師になると2択に決めて高校を選んだ。自分の中では音楽の道はないな、とは思いつつも、一応音楽科のある高校へ進んだのだった。

窮屈からの脱却

遠い場所に住んでいた親戚に看護師がいるが、連絡を取り合っていたわけではなく影響は少なかった。ただ、手に職をつけていたほうが生きていけると言われいたのを覚えている。

小学校4年生くらいの時に、三田佳子さん主演の大河ドラマ「いのち」を見て、感動した。このドラマを見て、医師になるお金はうちにはないけれど、看護師にはなれるかも、なりたい、と思うように。

その後も、救命救急センターのドキュメンタリー番組を見て、興味が湧いた。日本で一番最初に救命救急センターを作った、あの有名な救命救急センターで働きたい!そう思って看護学校へ行くことを決めた。

子ども時代、きっとどこかで窮屈だと感じていたのだと思う。
外の世界を見てみたい。
親元から離れたい。

そんな気持ちも手伝って、看護学校は東京へ行くことに決めた。

両親に言い出すのには時間がかかった。三者面談の前には学校の先生に「どうしてもこの看護学校に行きたいんだ!一緒に両親を説得してくれ!」と、巻き込んで、両親を先生と一緒に説得した。

看護師の土台を作った最初の職場

憧れの病院で、憧れの看護師になった。
でも、現実は甘くはなかった。

東京タワーは辛い色

毎日業務の始まりはチームリーダーへの報告。
「今日は○○さんの看護につきます。こんな点をこう考えてチェックします。」まずは今日やることを報告する。
ここで、患者さんに適切なことが言えていないと「なんで?どうして?」と問い詰められることになる。

毎日のように問い詰められ、勉強不足の自分を自覚する。
やる気満々で東京に出てきたのに、できないことしかない。
できない自分が悔しい。
なんでこんなにもできないんだ!

毎日のように東京タワーを見てわんわん泣いた。
看護師人生30年近くなった今だが、実はほんの1年前まで、東京タワーを見るとこの日々を思い出して辛かった。

しかし、同じ病院出身の人とたまたま機会があって知り合いになった。
その人とは一緒に働いたことはなかったが、昔働いていた病院を見に行こうという話になった。そして、病院を見た時、ここで育ててもらったんだ・・という気持ちが湧き上がった。

私はここで働けてよかった。
看護師人生の最初がここでよかった。
東京タワーを見て泣いた日々が看護師としての自分を育ててくれた。

そう思えたのだ。
やっと東京タワーが暖かい色だと思えるようになった。

看護師の土台

厳しい最初の職場で看護師の土台を作ってもらえた。
そう思えるようになったのはつい最近のことではあるが、この厳しい教育があったからこそ、今の看護ができる私になった。

患者さんを見るときに、数字だけではなく、その患者さんの背景まで知って、全体を見ることを教えられた。
患者さんの態度が悪く言葉がきつい。
なぜ態度が悪いのか。今、日々気持ちも辛いからだ。
では辛いと思う背景には何があるのか。
そんなことを、毎日のように考えた。

また、看護って何?を深掘りして業務にあたった。
医師の指示を聞くだけじゃない。看護師って何?
看護師だからこそ何ができるか?
それを考えて、考えて、毎日過ごしたおかげで、看護師として恥じない自分になれた。

自分の立ち位置

どうやら、私は自分の立ち位置というものを敏感に察知して行動しているところがある。

結婚後にわかった嫁・姑問題

パートナーは父親と違って穏やかな人。
穏やかながらも、芯はしっかりしていて決めるところは決めてくれる人で、頼りになるところはありがたい。
今でも「この人と一緒だったらなんとかなる」という安心感と共に生きている。

そんなパートナーでも、大げんかはする。
昔、不妊治療の時はひどく喧嘩をした。治療の影響もあり、イライラしてどうしようもない。わかっていても、お互いに気持ちが抑えられず大げんか。
「そんなにイライラするなら辞めたらいいじゃないか!」
「不妊治療はやりたくてやってるわけじゃない!」
なんて言い合ったことも。

パートナーは本家の本筋を継いだ長男。
なかなかに「ちゃんとした」ルールが決まっている。
家の行事で、こんなことにお金使うの?無駄じゃない?と思っても、ルールだから仕方がない。
正直、自分の家と比べると、めんどくさい行事や準備がたくさんあった。

しかも、結婚後に住んだ家が、パートナーの実家と歩いて15分の距離にあったものだから、最初は姑との距離感がわからず、窮屈になってしまった。

今では、距離感もわかり、月に1度以上家族で集まって一緒に夕食を食べる仲になっている。

ただ、今でも親戚が集まる行事になると、自分の立ち位置である「ちゃんとしてる」いい子ポジションにおさまっている。

新しい職場での自分の立ち位置

以前の職場での自分の立ち位置と、新しい職場の立ち位置は少し違う。

私はワーっと畳みかけるように言われたり、圧をかけられたりするのが苦手で、そういう状況に陥らないよう、ずっと立ち位置を考えて動いていた。
全体を見渡して、自分が言い出したほうがいいポイントなのか、他の人に上手に言ってもらうほうが良いポイントなのか。逆に、言っても文句だけ言われるくらいなら、何も言わないことを選ぶ。

今は話を聞いてくれる職場。
気の強い人はいても、こんなふうに言っておけば、業務はスムーズに動くな、などと考える。

看護師という職業が大好き!

私は看護師という職業が大好き!

患者さんの背景を深ぼるということ

血圧の高い患者さんがいて、医師は「薬飲みましょう、塩分控えてね」と正しいことを言うかもしれない。
でもそこで、患者さんの背景を深ぼってみようと思う。

血圧が高い患者さん。
わかってはいても、塩分が高いものばっかり食べている。
なぜ?妻に先立たれ、一人暮らし。自分で料理は作れない。だから、買い物にいっても惣菜弁当ばかり買ってくる。
じゃあ、この人に塩分控えてねと言っても、仕方がない。
自分で塩分をコントロールできないから。
この人にする効果的なアドバイスは、どういう弁当を選べばいいのか。
食べる時にソースの後がけをしないなどの食べ方のアドバイスもいいかもしれない。

同じ血圧が高い患者さんでも、梅干しを毎日食べてることを知ったら、週1回に減らしてみようと言うアドバイスができる。
本質は塩分を控えるという同じことだが、背景を知るとアドバイスが変わる。

どんな手助けやアドバイスが入れば、この人は変われるのか。
家族はこの状況を知っているのか。
患者さんの背景を深ぼるとは、こういうことだと思う。

がんの告知でも考えることがある。
告知に誰が一緒に来るのか。
一緒についてきたはいいけれど、今までの流れを全く何も知らない人。
誰かついてきてもらってと言われたから、ついてきた。

患者さんの今後を最もサポートしてくれる人、心の支えになる人は誰?
誰もいないなら、私が聞くだけでもその人と関われるかもしれない。

病院で見えている部分は患者さんのほんのほんの一部でしかない。
家族はどうサポートしているのか。
家でどんな生活をしてるか。
告知をどんな受け止めをしているか。
見る視点はたくさんある。

患者さんには、次来る時までに1つだけいいからやってみて、ってアドバイスをする。
1つだけならやってみようかな、と患者さんは思うし、患者さん自身が少しでもホッとしてもらえればいいな、と思う。
看護師の仕事は、患者さんと関わらないで医者の補助だけしていても業務は終わる。
でも、それじゃつまらない。

患者さんと話して、何かできることはないか。
私の顔を見て、ほっとしたよ、あんたと話せてよかったよ、と言われるととっても嬉しい。

病院で患者さんの顔が少しほころんだ。
そんな小さなことが、私にとって、とても嬉しいこと。
患者さんが悲しいなら一緒に悲しんで、嬉しいなら一緒に喜んで。
人との関わりに心が入るのがとても好き。

今でも看護師としての仕事が大好き。

ちゃんとした私との別れとこれから

「ちゃんと」と言うのは無くてもいいな、と思う事が増えてきた。

と言っても、「ちゃんと」の分厚いコンクリートを少しずつ叩いて、ベニヤ板くらいに薄く引き伸ばして、やっと穴が空いて、風通しがいいところが見えてきた。
そんな感覚。

いろいろなことに挑戦したい。
人生まだまだやれることはある。
窮屈に思っている患者さんを見ると、過去の自分と重ねてしまう。

「ちゃんと」じゃない自分を許せるようになって、人を許せるようになったように思う。
私の根底には「ちゃんとする」があるけれど、その枠が少しずつ外れてきて、苦しかった経験すら、人の苦しみもわかるための経験だったと思えるようになってきた。

看護師の仕事の根底にあるもの

私が37-38歳の頃、母の病気が見つかった。
見つかった時、すでに癌の末期だった。
看護師をしていた私は、画像を見ながら、もう1週間でダメかもしれないと思うほどの末期だった。

母は、自分が辛いのに、どんな辛い時にも「ありがとうございます」と頭を下げてお礼を言っていた。
母の偉大さが身に染みた。

母が、具合の悪い中、私をベッドのそばに呼んだ。「幸せになるんだよ。」と言いながら、ぎゅーっと抱きしめてくれた。
これが、母の愛なんだ。この母の温もりは10年以上たった今でも、はっきりと思い出すことができる。

この温もりを感じながら、私は決めていることがある。
自分の人生が終わる時、「私の人生、最高に楽しかった!産んでくれてありがとう!」と泣き母に伝えに行こうと決めている。
だから、やりたいことをやる、挑戦すると決めている。

あったかい、繋がり、を届けたい。
孤立している人をなくしたい。

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