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ジブンガタリドットコム「Akiさん」

何もしないのが一番もったいない

小さい頃にキャンプが好きだったわけでもない。東京という都会育ちの私は今、広大な空が広がる、水平線がみえるオーストラリアでバン生活をしている。

日本で看護師となるところから、オーストラリアで看護師をしながらバン生活をするようになった私のジブンガタリ。
(※バン=日本のキャンピングカーのようなもの。日本のキャンピングカーよりももう少しシンプルかもしれない。)

思い切りがいい?

大きな決断に迷ったことはあるか、と小さい頃のことを振り返ると、あまり無い気がする。

思い切りが良いのか?と聞かれると自分ではそういうつもりはないのだが、一般的には思い切りが良く見えるらしい。

何かを決める時、不安や心配はある。でも、言ってても仕方ない、と思うのだ。車の運転免許をとって運転すれば、事故を起こしてしまうかもしれない。じゃぁ免許を取るのを諦める?いや、諦めないだろう。多くの人が事故を起こしてしまうかもしれないからという理由で、免許取得を諦めないだろう。
大きな決断をしたと人から言われても、私にとっては起こるかわからないことを心配して諦める、という選択をしなかっただけで、免許と同じ話なのだ。

何もしないのが一番もったいない。

やりたいか?ワクワクするか?心配よりもそれが勝れば、やる。
やってみたら案外つまらなかった。それはそれでいい。ダメならダメでいい。それも経験。

放射線技師の道から看護師の道へ

多くの人にとって、人生を決める最初の選択が高校受験・大学受験ではないだろうか。例にも漏れず、私も人生の選択を迫られた。
迫られたとはいうものの、ほとんど迷うことなく、放射線技師の道へ進んだ。

この頃、画像医診断の重要性が広まっていたころで、日本の乳がん罹患率も上がってきたと認知されてきた頃だった。乳がんの検査にはマンモグラフィが必須。
マンモグラフィでは胸を思いっきり持ち上げて挟んで撮影する。ただでさえ知らない人に触られるのが嫌な場所。女性として、同性の技師がいれば少しは心強いだろうと感じ、放射線技師を目指したいと考えた。

放射線技師になるために専門学校に通い、いよいよ実習。今までは患者としてしか携わったことのない医療。実習とはいえ、初めて医療を提供する側として関わる。大学病院での実習はとても忙しかったが、初めての経験も多く、とても楽しいと思えた。
しかし、なんとなくモヤモヤが生じてしまった。

大学病院での検査の件数は非常に多い。次から次へと患者さんが来て、検査をして、次の人へ。なんだか流れ作業のようだと感じてしまったのだった。

モヤモヤを抱え始めた実習のある日。
その日はMRI検査の実習の日だった。閉所恐怖症を持ったある患者さんがMRI検査を受けに来た。MRIの検査がどういうものか理解はされているし、必要性も理解されている。しかし、いざ検査が始まるとやっぱり検査が怖くて難しい、という状況になってしまった。
私はゆっくり話を聞いてあげたい、まわりの技師もそう思っているようだった。しかし、そこで話をゆっくり聞いていると検査を待っている人がたくさんいて、どんどん時間がずれてしまう。

結局、ゆっくり話を聞くことができないまま、患者さんに検査を諦めるか、頑張るかを選択してもらって、検査は進んでいった。時間をもっとかけられれば患者さんだけでなく、その場にいた全員にとって良い結果になったかもしれない。何かもっと出来なかったんだろうか。患者さんを後でフォローする人が大切だなと感じた。

これが決定打となった。

放射線技師は素晴らしいし、実習も楽しかった。でも、自分は看護師がしたい、と。

同じところにとどまることはできない

放射線技師の道は自分が歩みたい道ではないと気付いた後、卒業はしたもののろくに勉強もしていなかったから、国試はpassできなかった。

しかし、そのときすでに看護師をめざして歩み始めていた。

卒業と同時に、看護助手の仕事を始めた。
精神科病院で1年看護師助手の仕事をし、翌年はリハビリ病院で看護助手をした。2年でお金を貯めて、その翌年に看護学校に合格。

看護学校には3年間通いながら、週末はリハ病院の看護助手を夜勤でやっていた。

看護学校を卒業した後、日本の看護師となった私は、日本の公立病院での看護師をした。同じ場所に居続けることが好きではなかった私は、3年後にはきっと別の場所へ行きたくなるだろう、と働き始めた当初から思っていた。
「石の上にも三年」ということで、まずは3年働くことを決めたものの、きっと病棟か病院かはわからないけれど、変えるだろうと自分のことながら予感をしていた。

結果、3年後にワーキングホリデーでオーストラリアに行くこととなるのだが、今、振り返ると看護師として働くことにおいては、この3年が最も楽しい3年だった。働くメンバーが仲良しで、経験年数は色々だったが、年も近く、よくご飯にも行ったりしていた。仲の良いメンバーで働く夜勤はいい意味でラフな、くだけた雰囲気で、患者さんにも「消灯時間だけど、この番組は見ちゃいなよ!」といった距離の近い、よく言えば融通のきく、悪く言えばグダグダな勤務も楽しかった。厳しい先輩ももちろんいたが、仲の良いメンバーで「また怒られちゃったー!」と言いながら、乗り切っていた。

いよいよオーストラリアへ

2013年ワーキングホリデーでオーストラリアに行った。この時はオーストラリアで看護師をすることも、永住することも全く考えていなかった。

海外・英語圏への憧れ

両親が洋楽・洋画好きで、毎週映画をレンタルしてみていた。小学生低学年のころから、洋画も字幕で見ていた。周りのみんながドラえもんを映画館で見ている頃、私はゴーストバスターやグレムリンを字幕で映画館で見た覚えがある。

歳の離れた姉が2人いるから、私が小学生の頃に、姉達が洋楽にハマっていた。JーPOPに興味が湧く頃に、家では洋楽が流れていたのだ。

この影響からか、日本以外の国、特に英語圏への憧れを持っていた。憧れというか、興味というか。
日本以外の国に行ってみたい。文化に触れてみたい。テレビ番組も旅行番組や世界不思議発見のような、海外の文化に触れられるものを好んで見ていた気がする。

ワーキングホリデーが年齢ギリギリ!

海外への憧れもあり、ワーキングホリデー(以下ワーホリ)で海外に行くことを決めたが、ワーホリには年齢制限がある。国にもよるが、おおくが30歳になる年には申請を終えておかねばならない。

2013年、私は29歳。ワーホリに行けるギリギリの年齢だった。

オーストラリアはワーホリでは最大2年滞在ができるが、この時は私は1年くらい行こう、と思っていた。まさかオーストラリアで看護師をするなんて夢にも思わず、むしろ世界が違うところにいる人だと思っていた。

オーストラリアでは介護士のような仕事をして、高齢者施設で働いていた。ワーホリは働くとはいえ、ホリデーという名の通り、やはり楽しいことがおおかった。

逆カルチャーショックが治らない

海外で暮らして日本に戻ってくる人がよくあるように、2014年に日本に戻った私もまた、逆カルチャーショックを受けた。あぁ、日本ってこんなだったなぁ・・と、日本のnegativeなところが目につく。これを海外かぶれと呼ぶ人もいるだろう。

日本に戻って、徐々に日本に馴染みなお・・せなかった。なかなか日本で暮らしていた頃のような感覚に戻れなかったのだ。

この時、同時期にワーホリでオーストラリアに行った友人がオーストラリアで看護師になることを決めたと耳に入った。

え、すごい、と思いつつ、自分にもできるんじゃないか?とも思い始めた。
ワーホリ中に働いていた高齢者施設で、辞める時に正社員にならないか?と声をかけてもらったこともある。英語がまだまだな自分でも、働かないかと声をかけてもらえている。

もしかするとオーストラリア看護師に自分もなれるかもしれない!

そう思うと決断は早かった。
そこからは寝る・食べる以外は英語の勉強とオーストラリアで看護師になるための学校へ通う費用を稼ぐ日々。ひたすらそれだけをやって、オーストラリアへ戻ることにしたのだ。

オーストラリア看護師への道と運命の出会い

2017年にオーストラリアへ戻り、オーストラリア看護師になるために大学へ通い始めた。今はもう無いコースだが、海外看護師コースというコースで1年勉強をしてオーストラリアの看護師になる。普通は3年のカリキュラムだから、このコースがあったのはラッキーだった。

これから続く移住・永住権の話は、自分の力ではどうにもならない運が人生を左右することがある。

私はラッキーな部分もアンラッキーな部分もあったと思う。

オーストラリアで看護師の資格を取るのに、一番立ちはだかったのは英語だった。英語のテストをpassするのがとにかく難しかった。ここで英語のテストをpassできていたら、VISAや永住権の話も変わったのかもしれないと思う。

この、看護師になるための大学に通う1年間。
私は今一緒に暮らしているAlexと出会った。

バン生活の始まり?

Alexは出会った頃から、バン生活をしていた。

パートナー関係になり、Alexはバン、私は別で暮らしいた。2017年のある時、母親に会いに行くけど一緒に行く?と誘われ、面白そう!と一緒に行くことに。

実は、会いに行く?と気軽なものではなく、母親は2,300km離れたところで暮らしており、2〜3日かけてバンで移動しながらのプチ旅行。バンも今の2人暮らしのバンではなく、小さなバンでトイレもシャワーもない。キッチンはあるけど水が出ない。Alexからも「大丈夫?」と聞かれたが、面白そうだし!と一緒に行くことにした。
水が出ないキッチンー!と全てが笑えた。

VISA・永住権

Alexと出会い、オーストラリアでの大学生活を終え、やっぱりオーストラリアに住みたい。
Alexとも一緒に過ごしていきたい。

それには、オーストラリアでの永住権が必要。どうしても必要だった。

永住権は申請条件が厳しい上に、その時の政治情勢によって、申請条件がコロコロ変わる。私が永住権をとろうと思った時は永住権氷河期だった。
年齢はもっと若い人が優先され、、英語も堪能でないと永住権がおりない。
自分の力だけで永住権をとりたかったが、この時は不可能だった。

2018年、VISAの関係で日本に戻った。この時Alexも日本について来た。ここで私は一大決心をAlexに伝えた。
「一緒に今後住むには永住権が必要。永住権を得るにはパートナーVISAが必要だ」ということを話した。

パートナーVISAとは、その名の通り、オーストラリアに永住権を持つ人のパートナーに与えられるVISAで、この時私が永住権が得られる唯一と言っても良い方法だった。

パートナーVISAを取るのには、日本の婚姻届のようなパートナーである証明書は必要なく、お互いにパートナーであるということを認めているということが必要。
ただ、書類は必要ないものの、パートナーVISAを取るとなると、ほぼ結婚と同じ、法的に結婚と同じ扱いになる。

Alexはバツ2で、今後も結婚する気もないし子供も作る気はないと前々から言っていたから、Alexにとって大きな決断となる。
私が日本に帰国したタイミングで1対1でしっかり話しておきたかった。返事はすぐ出なくてもいい、家族とも話し合ったり、しっかり考えて欲しいと伝えた。

その数日後に、オーストラリアに戻ったAlexから「パートナーVISAを出すにはどうしたらいい?」と連絡が来た。

「え?良いってこと?」
「うん、そうだよ。」

こうして私からするとやや拍子抜けするほどあっさりと、パートナーVISAを申請することが決まった。

完全に永住権が降りたのは2021年。この時、人生で一番ほっとした。
やはり、この国に住めるか、住めないかが決まる。人生を大きく左右するもの。本当に降りてよかった。

バン生活の始まりは見たこともないバンでスタート

Alexとバン生活をすることになり、引っ越す前。私は自分が住むバンを直接見たことはなかった。

私が日本に帰っている間に、2人で住むなら大きいバンが必要だね、とAlexが購入。ビデオ通話を通してみたものの、大きさや質感は全く知らないままバンへ引っ越すことになった。

これを友人に言うと、よく行ったね、と半ば呆れられることもあるが、楽しそうだしね、と飛び込めた。

これからのことは誰もわからない

目の前の時間を無駄にしないように生きている。
これからのことは誰にもわからない。

いつまでバン生活をする?
それもわからない。
もしかしたら、バンじゃなくてボートで生活するかもしれないし、船で世界を回るなんて夢もある。

たくさん心配や不安はある。でも、悩んで目の前の時間を無駄にしたくない。

楽しい走馬灯にしたい

死ぬ時に「楽しかったなー」って思って死にたい。
いろんな場所へ行ったこと、いろんな人に出会ったこと、それを走馬灯でお思い出して、楽しかった〜と思いたい。あれもしたかった、これもしたかったと後悔しないように。

こんなふうに自分がまさかオーストラリアで看護師をするなんて最初は思いもよらなかった。
世の中の人が全員挑戦をするべき!とは思わない。その人その人に合うものがあるから。でも、やりたいことがある、そんな人は是非やってみてほしい。やってみて楽しくなかった、ダメだった、それは合わなかっただけ。続かなくったっていい。

日本では継続が美徳とされるけど、ネガティブにとらえる必要は無いと思う。ダメだったり、やめたことも経験になっている。

これからもワクワクする方へ進んでいこうと思う。

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